(2018年 真宗教団連合「法語カレンダー8月のことば)
今月の法語は親鸞聖人の『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』という書物の中の一文です。
この書物については、今年の3月の法話で書かせて頂きましたのでご参照ください。
一念多念文意の中に、中国の浄土教の大成者(浄土真宗の七高僧の一人)である善導大師(613〜681)の表わされた『法事讃』の「致使凡夫念即生」という言葉を解釈された文章の中に出されているのが今月の法語です。
「致使凡夫念即生」(凡夫をして念ずればすなはち生ぜしめることを致す)
親鸞さまはこの文を『一念多念文意』の中で、以下のようにお示しくださいます。(一念多念文意現代語版からの引用です)
『法事讃』に「致使凡夫念即生」といわれているのは、「致」は「むねとする」ということである。「むねとする」というのは、これを根本とするという言葉である。また「いたる」ということである。「いたる」というのは、真実の浄土に至るというのである。「使」は「させる」ということである。「凡夫」とは、すなわちわたしどものことである。わたしども凡夫は本願のはたらきを信じることを根本としなさいというのである。「即」は「すなわち」ということである。時を経ることなく、日を置くこともなく、正定聚の位に定まることを「即」というのである。「生」は「うまれる」ということである。これを、「念即生」というのである。(下線部が今月の言葉)
そして、「正定聚」の位に入ったものは浄土に生まれて必ず「さとり」に至ると誓われているのが阿弥陀さまであることが説かれています。
さらに続けて、「凡夫」について次のようにお示しになられます。
「凡夫」というのは、わたしどもの身には無明煩悩が満ちみちており、欲望も多く、いかりやはらだちやそねみやねたみの心ばかりが絶え間なく起り、まさに命が終わろうとするそのときまで、止まることもなく、消えることもなく、絶えることもないと、水火二河の譬えに示されているとおりである。……
このような姿をもった凡夫が私であるということです。
今月の法語は、凡夫とは私自身のことであることをはっきりと自覚しなさいということを示された言葉であると思います。ともすると、「あの人は凡夫だ」と、他の人に向かって批判する言葉であったり、「自分は凡夫だからできなくて当たり前」と逃げ口上にしてしまうことの多い私です。そんな私こそが「凡夫」であるということです。しかし、常に煩悩にまみれた自分であることを自覚することは、大変難しいことではないかと思います。
そんな私であるからこそ放っておけないのが阿弥陀さまという方であることを示してくださっているのだと思います。
凡夫であるからこそ、阿弥陀さまのおはたらきを繰り返し聞かせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏