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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2018年10月の法話
「煩(ぼん)は身をわずらわす 悩(のう)はこころをなやますという」
                 (2018年 真宗教団連合「法語カレンダー10月のことば)
 今月の法語は、親鸞聖人の書かれた『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』の中の一文です。
 『唯信鈔文意』については、今年の4月の法話で書かせて頂きましたのでご覧ください。

 唯信鈔文意の現代語版には、次のように書かれてあります。(今月の法語の少し前の文章から引用させて頂きます)

 ≪自力の心を捨てるということは、大乗・小乗の聖人、善人・悪人すべての凡夫、そのよう
 な色々な人々、さまざまなものたちが、自分自身を是とする思いあがった心を捨て、わが身 をたよりとせず、こざかしく自分の悪い心を顧みたりしないことである。それは、具縛(ぐ
 ばく)の凡愚(ぼんぐ)・屠沽(とこ)の下類(げるい)も、ただひとすじに、思いはかること
 のできない無礙光仏(むげこうぶつ)の本願と、その広く大いなる智慧の名号を信じれば、煩 悩を身にそなえたまま、必ずこの上なくすぐれた仏のさとりに至るということである。「具 縛」とは、あらゆる煩悩に縛られているわたしたち自身のことである。「煩」は身をわずら わせるということであり、「悩」は心をなやませるということである。「屠」は、さまざま な生きものを殺し、切りさばくものであり、これはいわゆる漁猟(ぎょりょう)を行うものの ことである。「沽」はさまざまなものを売り買いするものであり、これは商いを行う人であ る。これらの人々を「下類」というのである。≫(下線部が今月の法語)〔唯信鈔文意現代
 語版 西本願寺刊〕

 このように、私たちはあらゆる煩悩に縛られた身であることを親鸞さまはお示しくださいます。
 さらに、煩悩に縛られ振り回されて生きている者が、仏の悟りを得るために自分の考えが正しく間違いないと思い込み、自分自身の力で悟りの世界に近づこうとするのは間違いであることを示されます。
 そして、どれだけ煩悩に振り回されて生きている者であっても、どんな境遇の者であろうとも、私たちがとても考えのおよばないような無礙光仏(=阿弥陀如来)の不思議なおはたらきにまかせて、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏………」と念仏して阿弥陀さまのはたらきの中に在る自分であることを喜ばせていただこうとする者は、煩悩を身にそなえていても阿弥陀仏のおはたらきで必ず極楽浄土に生まれさせて頂き阿弥陀仏と同等の悟りを開かせていただくことができることを示されます。 

 今月の法語は、その煩悩についての言葉です。
「身をわずらわせるもの」「心をなやませるもの」考えてみれば、何時でもこの身に起こしていることです。

 昔のお話ですが、本願寺第8代蓮如上人とトンチで有名な一休禅師の手紙のやり取りです。
 蓮如さんのところへ一休さんから長い長い手紙が来ました。
 「あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あれこれ あ れこれ あれこれ あれこれ あれこれ ………とかく人とは忙しきものなり」と。
 そして、蓮如さんの出されたお返事は
 「ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ね てくて ねてくて ねてくて ねてくて ねてくて ………かくて人は死ぬものなり」と。

 日々あれやこれやとどうしたらいいのか?どの道を行けばよいのか?迷い悩むことが多くあり、その思い悩みで自分をどんどん追い込んで心を亡くしているのが人間の姿です。と、一休さんが言えば、そんな人間も食事して寝るという日々の繰り返しで最後は死んでいくのだと蓮如さんのご返事です。

 煩悩に振り回され生きている私たちです。多くの迷い悩みがあるのが自分だと受け止めることができれば少し安心して生きていけるのではないでしょうか。
 阿弥陀さまは煩悩いっぱいの私たちを抱き続けてくださっています。

                                    南無阿弥陀仏