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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2019年2月の法話
「きくというは 信心(しんじん)をあらわす 御(み)のりなり」
             (2019年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
 早いもので年明けから1ヶ月が経ちました。
 この一か月の間にお世話になった方とのお別れがありました。
 今「お別れ」と申し上げましたが、浄土真宗では「告別式」とは言わないと仰る方もおられます。それは、浄土真宗では、「葬儀式」は故人にお別れを告げる儀式ではないという受け止め方をしているからです。
「葬儀式」という名称は亡くなられた方の体を葬(ほうむ)るためにする儀式ということだと思います。ですが、故人のすべてを葬るのではありません。何故なら、故人は阿弥陀さまに抱かれて仏の国(極楽浄土)に生まれられ、仏のさとりを開かれて仏と成られたからです。
  
 親鸞さまが作られたご和讃には
      安楽浄土にいたるひと   五濁悪世にかえりては
      釈迦牟尼仏のごとくにて  利益衆生はきわもなし
(阿弥陀仏に抱かれて極楽浄土に生まれた人は、五つの濁りに満ちみちたこの世界にかえってきて、お釈迦さまのように人々に安心を与えようとどこまでもはたらき続けられるのである)

 「五つの濁り」ということは1月の法話で書かせて頂きましたが、劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁という言葉で表される苦しみの現実世界のことです。
 せっかく五濁悪世から阿弥陀さまのはたらきで、抜け出すことができたのに、悟りの仏と成ったら、衆生済度のために、又、この苦しみの世界にかえってくるというわけです。
 
 阿弥陀さまは、すべてのいのちあるものにはたらき続けておられますので、阿弥陀さまのはたらきで仏と成られた方の葬儀をさせて頂くということになります。ですから、葬儀はお別れを告げるための式ではなく、故人が生前に私どものことを支えてくださったはたらきや、身をもって示してくださっている命のはかなさ、尊さの教え、今後、仏さまとして阿弥陀さまと共にはたらき続け支えてくださることなどを味あわせて頂きお礼を申しあげ、故人の肉体とお別れする場が葬儀式ということだと思います。

 今、葬儀式のことが話題に上ることが多くなりました。「家族葬」「小さなお葬式」「直葬」等々、その形が問題視されています。
 しかし、大切なことは何だろうかと考えてみますと、確かにお金の問題もありますが、送る側として、故人に対して自分のできる範囲で、精一杯お礼の気持ちを表現できたらいいのではと思います。

 さて、今月の法語は、親鸞さまが書かれた「一念多念文意(いちねんたねんもんい)」の中の言葉です。
 「きくというは 信心をあらわす御のりなり」
 一念多念文意の現代語版に出されている今月の法語の文より少し前の文章から引用させて頂きます。

 「聞くというのは、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを聞というのである。また聞くというのは、信心をお示しになる言葉である」(下線部が今月の言葉)
 
 阿弥陀さまのはたらき=この私のことを絶対に捨てることなく常に私と共に居て、私が娑婆のご縁が尽きたら、私を極楽浄土に生まれさせ阿弥陀仏と同等の悟りを開かせるという誓い=をそのまま聞かせて頂くことが信心であると示された言葉です。

 浄土真宗では、「そのままに聞く」ことを非常に大切にしています。
 阿弥陀さまのはたらきをそのまま聞くということは、自分の往生浄土と成仏についてはすべて阿弥陀さまにおまかせする。ということです。阿弥陀さまのはたらきを疑うことなく受け取ることで、亡き方々を仏さまと仰がせて頂くことができるのです。
「有り難うございます、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」とお念仏称えさせて頂くなかに、私の安心の世界が恵まれているのです。
                                    南無阿弥陀仏