(2019年 真宗教団連合「法語カレンダー」3月のことば)
境内の梅の花も満開を過ぎ少しずつ散り始めています。近頃は暖かい日が多く春がすぐそこまで来ていることを実感します。
ところで「春」は眼に見えません。つかむこともできません。が、しかし、春の温かさを肌で感じ、多くの花が咲き出すことを見たり聞いたりすることで、春の訪れを感じることができます。それはどうしてでしょうか?
私たちは、この世界に生まれさせて頂きお育てを頂き生活させて頂く中で、「春」と聞けば「温暖」「お花」「新緑」……などの言葉が浮かびあがってくることでしょう。ですから、お花を見ただけで「春が来た」という思いを持つこともあります。
つまり、自分の積み重ねた経験によって春夏秋冬を感じるようになる。今、それを感じる自分に成っているのです。
ところで、阿弥陀さまのことがよくわからないと言われる方がおられます。阿弥陀さまのことを科学的に証明しようとしてもそれは無理なことです。証明できないから仏さまなど存在しないと思うという方もおられます。
しかしながら、そんな阿弥陀仏を頼りにして安心して生き死んでいかれた方が数多くおられたことも間違いのないことです。そのような方は、色々な形で阿弥陀さまと触れる機会を数多く持たれたことによるのだと思います。
例えば、お念仏を何度も称えること、お仏壇に手を合わせること、仏さまのお話を聞くことなどの機会を多く持つことによって、私たちが季節の訪れを感じるように阿弥陀さまのはたらきを感じることができるのではないかと思います。
さて、今月の法語は『唯信鈔文意(ゆいしんしょうもんい)』という親鸞聖人が書かれた本の中に出されている一節です。その現代語訳の文章を紹介しますと、
「この信心は、真実の浄土に生まれる種となり、実となるべきものであるというのである。それは、いつわりやへつらいを離れた、真実の浄土に生れる因となる信心なのである。わたしたちは善人でもなければ、賢者でもない。賢者というのは、立派ですぐれた人のことである。ところがわたしたちは、仏道に励む心もなく、ただ怠けおこたる心ばかりであり、心のうちはいつも、むなしく、いつわり、飾り立て、へつらうばかりであって、真実の心がないわが身であると知らなければならないというのである。『唯信鈔』に「斟酌しなければならない」といっているのは、自分自身がどのようなものであるかということを知り、それにしたがってよく考えなければならないという言葉である」(『唯信鈔文意 現代語版』本願寺刊より抜粋)≪下線部が今月の法語≫
引用がたいへん長くなりましたが、親鸞さまは、私たち自身は善人でも賢者でもないことを示され、私たちには真実の心がないと申されています。
だからこそ阿弥陀仏は私たちのことを放っておくことができないのです。ですから、阿弥陀さまのはたらきをよくよく聞かせて頂き、阿弥陀さまのはたらきに応えようとすることが大切なことではないかと思います。
「阿弥陀さま有り難うございます、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」とお念仏称えさせて頂くことや、縁あるごとに合掌させて頂くことなどで、阿弥陀さまと共にあることを感じ安心させられるのだと思います。
南無阿弥陀仏