(2019年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
今月の法語は『親鸞聖人御消息(しんらんしょうにんごしょうそく)』(=親鸞さまが書かれたお手紙)の中の一文です。
『浄土真宗聖典(註釈版)』(西本願寺刊)には、43通の親鸞さまのお手紙が集められています。
今月の法語が語られますのは、その第6番目に載せられているお手紙で、笠間(現在の茨木県笠間市)の門弟の疑問に答えられたものです。
そのお手紙には、浄土真宗の教えでは、浄土往生を願うものについて他力のものと自力のものとがあることを示されています。(以下、『親鸞聖人御消息集 現代語版』の引用です。)
「自力ということは行者がそれぞれの縁にしたがって、阿弥陀仏以外の仏の名号を称え、あるいは念仏以外の善を修めて、自身をたのみとし、自らのはからいの心で、身・口・意の三業の乱れをとりつくろい、立派に振舞って浄土に往生しようと思うことを自力というのです。
また他力ということは、阿弥陀仏の四十八願の中で、真実の願として選び取ってくださった第十八の念仏往生の本願を疑いなく信じることを他力というのです。
それは阿弥陀仏がお誓いになられたことですから、「他力においては義のないことをもって根本の法義とする」と、法然聖人は仰せになりました。「義」というのは、はからうという言葉です。行者のはからいは自力ですから、「義」というのです。
他力とは、本願を疑いなく信じることで間違いなく往生が定まるのですから、まったく「義」はないということです。
ですから、この身が悪いから、阿弥陀仏が迎え取ってくださるはずがないと思ってはなりません。凡夫はもとより煩悩を身にそなえているのですから、自分は悪いものであると知るべきです。
また、自らの心が善いから、往生することができるはずだと思ってはなりません。自力のはからいでは、真実の浄土に生れることはできないのです。……(略)……善人や悪人を区別することなく、煩悩に汚れた心を分け隔てすることなく、必ず往生すると知らなければなりません。……」(下線部が今月の言葉の現代語訳です)
引用がたいへん長くなりましたが、私たちが間違いやすい問題が提起されているという思いがします。それは、往生ということに対して阿弥陀仏のおはたらきにおまかせすると言いながら、まかせきれずに自分自身で阿弥陀さまに近づくような何かをしなければいけないのではないか?というふうに思ってしまうことです。
例えば「念仏しなければ救われない」とか、「お経をとなえなければいけないのでないか」とか、逆に「私は念仏を称えている、お勤めを毎日している、何時も仏さまを大事にしている」という思いにとらわれてしまうことです。
今月の言葉は、私の思いや態度・行動で往生が決まるというのではなく、阿弥陀さまは、今ここに居る私そのものに対してはたらいてくださっていることを示してくださった言葉だと思います。そのはたらきが「南無阿弥陀仏」となって私に届けられています。
阿弥陀さまのおはたらきを疑うことなくそのまま受け取らせていただくことの大切さを改めて思うことです。
南無阿弥陀仏