(2019年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
今月の法語は親鸞聖人の『一念多念文意(いちねんたねんもんい)』という書物に出されている一文です。
『一念多念文意』という書物については2018年3月の法話で書かせて頂きましたので、ご覧いただければと思いますが、少しおさらいしてみます。
この書物は、法然聖人のお弟子であり親鸞さまの先輩である隆寛律師(りゅうかんりっし)さまが著わされた『一念多念分別事(いちねんたねんふんべつじ)』を親鸞さまが註釈されたものです。
当時、法然聖人門下の中では、浄土に往生することが決まるのは何時かということについて二つの考えがありました。「一念義(いちねんぎ)」と「多念義(たねんぎ)」です。
一念義(いちねんぎ)の人は、信心一つで決定(けつじょう)する、または一声の称名念仏で決定するとして、その後の称名念仏を軽視するような教えを説いたようです。
多念義(たねんぎ)の人は一生涯、念仏を数多く称え、臨終の時に阿弥陀仏が来迎されるのをまって浄土往生が決定すると主張されたということです。
法然さまの教えを同じように聞いた者の間でも論争が起こっていたのです。これが「一念多念の諍論(じょうろん)」と言われるものです。このような争いに対して、隆寛さまも親鸞さまも一念・多念に偏りとらわれないのが念仏往生の義であることを説かれたのが『一念多念分別事』『一念多念文意』という書物です。
さて12月の法語は、天親菩薩(てんじんぼさつ)さまが著わされ『浄土論』という書物の中に書かれている「遇無空過者(ぐむくかしゃ)」という言葉を解説された中に出されている一文です。
≪「遇」はもうあうという。もうあうと申すは、本願力を信ずるなり。「無」はなしとい
う。「空」はむなしくという。「過」はすぎるという。「者」はひとという。むなしくすぎ るひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。≫
(『一念多念文意』〔原文を現代仮名遣いにしています〕下線部が今月の言葉)
≪「遇」は「出あう」ということである。「出あう」というのは、本願のはたらきを信じる ことである。「無」は「ない」ということである。「空」は「むなしく」ということであ る。「過」は「すぎる」ということである。「者」は「人」ということである。「むなし く時をすごす人はない」というのは、信心を得た人は、いたずらに迷いの世界を生まれ変 わり死に変わりすることはないということである≫
(『一念多念文意 現代語版』)(下線部が今月の法語)
浄土真宗の信心は、ご承知の通り阿弥陀さまから頂くものです。その信心が因となって極楽浄土に往生させて頂き悟りの仏と成るのです。信心を阿弥陀さまから頂くということは、私たちがもともと持っていないからです。
「心はコロコロ変わるからこころと言う」と、聞いたことがあります。自分の都合で他人を善人にしたり悪人にしたりし、「自分は○○のことを達成するために生きていこうと思う」などと考えていても自分の置かれている状況が変わるとすぐに心変わりをしてしまう私です。お恥ずかしい限りです。
そういう私のすがた(本性)を見抜いての阿弥陀さまのはたらきです。煩悩だらけと申しますか煩悩に左右されてしか生きていけない私をそのまま包み込んでくださっているのが阿弥陀さまなのです。
その阿弥陀さまのはたらきをそのまま聞かせていただきそのまま受けとらせて頂くことで必ず仏の悟りを開かせて頂く身であると知らされるのです。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と念仏させて頂き阿弥陀さまがいつも一緒にいてはたらいてくださっていることを喜ばせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏