(2020年 真宗教団連合「法語カレンダー」3月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派の僧侶であられた安田理深さん(1900〜1982)の『信仰についての対話T』(大法輪閣刊)という書物の中の言葉ということです。
私は安田理深先生のこともあまり知りませんし、この書物も読んだことがありませんので、ネットで検索してみました。
安田理深(やすだりじん、1900年9月1日―1982年2月19日)は、日本の仏教学者。真宗大谷派の僧籍を持つ。
<人物>
・青春時代には東洋哲学やキリスト教などを学んだが、金子大栄の著作に触れて親鸞思想 に目覚め、大谷大学へ入学。晩年は私塾相応学舎を主宰し、浄土教理学のほか、唯識など の講義を行った。その学識から幾度も大学教授などの誘いがあったが、生涯無位無官を貫 いた。
ウィキペディアの文章なのですが、安田先生はきっとすごい方であったと思われます。
『信仰について対話』の説明には次のように書かれています。
真宗の教学者と老求道者の問答集―既成概念を打ち砕き、信仰の要に直結する深く鋭い教 え。向こうにおいた仏に何かをたのむ信仰ではない。弱い自分のままに強く生きていける教 えがここにある。
この老求道者の問いに対する答えに今月の法語があります。
≪法は完全であるが、信仰という問題になると割り切れるものではない。すかっと割り切れた ということはない。本願を疑うということは、どういうことかといえば、自分を放さない。 我です。我を頼る。本願を疑う疑いのもとは、仏の智恵というものがないためにはっきりし ない。そのために自分を頼る。本当のことがわからないと本当でないものを本当にする。自 分を捨てない。自分を本当にする。その我執というものは根が深い。その根が深いといって も、根が深いということも信仰によって教えられていく。≫(下線部が今月の法語)
(『月々のことば』本願寺出版社刊より転載)
阿弥陀仏は「必ず救う。我を頼りにせよ。我にまかせよ。」と私たちに向かってはたらき続けよびつづけてくださっているのですが、そのはたらきをそのまま受け取ることなしに疑いを持ってしまうのが私たちであるということでしょう。
つまり「阿弥陀仏のはたらきをどのように受け取ったらいいのか?」「どのように受け取るのが正しいのか?」などと、あれこれ詮索してしまう。また、「あのような態度をとる人は信心のない人だ」と他人のことを評価してしまう。このようなことの判断基準は結局のところ自分自身(我)であるということなのだと思います。
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず (正像末和讃)
【阿弥陀仏の本願のはたらきはきわまりなく、どれほど深く重い罪もさわりとなることはな い。阿弥陀仏の智慧のはたらきは果てしなく、散り乱れた心で勝手気ままな行いをするもの であっても見捨てられることはない】(「三帖和讃現代語版」 本願寺出版社刊より)
「罪業深重の私」「散乱放逸の私」を捨てることができない阿弥陀さまです。それが、私の本当の姿であると教えてくださっています。そんな自分が「本当のもの」であるはずがないのです。ここで言われる「本当のもの」とは「真実」ということでしょう。「うそ偽りの全くないこと」ということでしょう。
しかし、私たちはどうしても自分自身が中心になります。そして、本物でない自分を本物だと思い込んでしまい、苦しみ悩まされていることをお示しくださり、本物である「南無阿弥陀仏」を称え阿弥陀さまのお心に聞かせて頂こうということではないかと思います。
南無阿弥陀仏