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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2020年6月の法話
   「人が何(なに)よりも
       執着(しゅうじゃく)せんとするものが
                   自己(じこ)である」
          (2020年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
 6月の法語は前田周一さんという方の言葉です。
 前田周一さんは、石川県金沢市のご出身で明治から昭和にかけて活躍された仏教思想家であり詩人でもあった方ということですが、私自身は前田周一さんについて、以前にお名前を聞かせて頂いたことがあるかな(?)という思いがあるぐらいで全くその人物については存じておりません。
 ネットで調べてみても前田氏のことは出てきませんでしたので人物像はわかりませんでしたが、大切なのは、今月の言葉そのものが、私に向かって何を投げかけてくださっているのかということだと思います。人物像がわかると、その方の発せられている言葉も、その重みを増すということはあると思いますが、真実を示してくださるような言葉であれば、言葉そのものをそのまま聞くということも聞かせていただく者の態度として非常に大切なことであるとも思います。
 
 さて、今月の法語は「私たち人間が何をおいてもとらわれて離すことができないのが自分自身である」ということを示してくださっていると思いますが、「執着」という言葉について
『岩波仏教辞典』をひいてみますと以下のように書かれてあります。
 「事物に固執し、とらわれること・〈執著〉とも書く、術語というよりも、一般的な用語
 で、現代語の執着に似ている。煩悩の術語としての (愛)あるいは(貪)に近い意味である。
 サンスクリット原語は(没頭すること)、(摂取、所有)などよい意味でも使われる語が同時
 に執着の意味をもち、(にぎる、理解)、(決知、判断)など認識にもかかわる語がまた執着
 の意味でも用いられる。」

 このように示していただきますと、自分自身に執着しているということの中身がよりはっきりするのではないかと思います。
 自分勝手な愛をもって貪りの心を起こし、色々なものにとらわれていくのが私であると教えられていると受け取ることもできます。
 さらに、サンスクリット原語のではよい意味でも使われているとも記されていますが、集中することも所有すること、又、理解や決断ということも方向性が悟りの智慧と反対方向を向いていればそれは恐ろしいことになります。
 例えば、この度の新型コロナ感染症拡大防止のための自粛要請に対して「自粛警察」を名乗る人が「自粛」という正義と思われるものをを振りかざして自粛をしていないように見えるお店や人々を攻撃するような事象が多く発生しています。
 ところが、他人に自粛を求める行動を起こすほとんど人には悪意がなく新型コロナウィルスによる感染拡大に対しての過剰な防衛本能が問題行動を引き起こしているという指摘もあります。そうなりますと、自分のしていることは「感染拡大予防のために正しいことをしている」という思いをもって行動をされているということになります。
 しかし、そのような行動が、多くの人々を差別し、窮地に追い込むことになってしまうことがマスコミでも多くの識者からも指摘されていることです。大切なことは、この新型コロナウィルス感染拡大という大きな危機をみんなが力をあわせて乗り越えていくということなのですから。
 自分で正しい間違いないという判断をし、人々を裁いていくことの危うさ・恐ろしさが現実になった事象だと思います。
 
 このように間違っていようが正しかろうが、自分自身に一番とらわれ生きているのが人間(私)であるということを示してくださる今月の法語です。それは、仏法を聞かせて頂くことで明らかになってくる世界でありますが、それを知らされ教えられても、自分自身が自己に執着しなくなるとはいかないと思うのです。ただ自己に執着する自分であるから問題を多く抱えるのだとわからせて頂くことが大切だと思います。
 だからこそ、常に私のことを放っておけずはたらき続けずにはおれない阿弥陀様なのです。

                                    南無阿弥陀仏