(2020年 真宗教団連合「法語カレンダー」10月のことば)
今年の「お月見(十五夜)」は10月1日です。
その十五夜のことを少し調べてみようと思いインターネットで検索してみますと、十五夜について本当に知識を持っていない自分だと教えて頂いたことでした。
そこには、「十五夜」は旧暦の8月15日であること、十五夜が必ず満月になるとは限らないこと(因みに今年の十五夜は10月1日ですが満月は10月2日です)。又「仲秋の名月」と「中秋の名月」との違いについては、旧暦の秋は7月(初秋)8月(仲秋)9月(晩秋)と定められていて「仲秋の名月」は「8月の名月」ということになります。一方、中秋とは秋のちょうど真ん中の日(旧暦8月15日)のこと、そのため、十五夜の時は「中秋の名月」と書くことが多いそうです。
十五夜のお月見が広まったのは「平安時代」に中国から日本に伝わり貴族の優雅な遊び(観月・飲酒・詩歌・管弦などを楽しむ)として定着したようですが、庶民の間に広がったのは江戸時代に入ってからのようで、平安時代の貴族とは異なり、収穫祭や初穂祭の意味合いが強く無事に作物を収穫できた喜びを分かち合い感謝する日であったようです。
そして、お月見は1日だけでなく3回(十五夜・十三夜・十日夜)することが大事であるとも書かれていました。
このように簡単に書きましたが、私たちのしている「お月見」という行事には、深い歴史があるということです。
しかし、現在の自分はそのような歴史を感じることもなく「この時期に十五夜の丸いお月さん見たらそれで安心」という感覚だけではないかと思うのですが、「月を見て安心する」という思いを持たせるものは一体何でしょうか。それは、昔から続けられてきたお月見を私の両親の行動を通して、自分が受け取ってきたからではないかと思うのです。「十五夜の月を見て安心する」そんな心が私に育てられてきたということです。
さて、今月の言葉は、大谷大学の教授をされていた金子大栄(1881〜1976))先生の書物の中の一文です。
念仏とは「南無阿弥陀仏」を称えること、阿弥陀仏を念ずることです。その念仏が自分自身を見つけることだということです。
それは、どうして念仏するかということを訪ねることで明らかになるのではないかと思います。
親鸞さまは、教行信証の中で、「南無」というのは「帰命」です。「帰命」というのは「本願招喚(ほんがんしょうかん)の勅命(ちょくめい)です」と申されています。
『教行信証現代語版』によりますと、「帰命とは、私を招き、喚び続けておられる如来の本願の仰せである」と示されています。
つまり私が称えているお念仏は、阿弥陀さまが称えてくださいと願われたからなのです。では、どうして、阿弥陀さまはそんなことを願われるのでしょうか。
それは私のことを放っておくことができないからです。欲の心・怒りの心・妬みの心など数え上げればきりがないほどの煩悩をかかえ煩悩に振り回され生きているのが私たち凡夫です。だからこそ多くの苦をかかえて生きていかなければなりません。苦しみに押しつぶされていく凡夫、そして最後は死という苦をかかえていのち終わっていく者のことを捨てることができない阿弥陀さまなのです。
その阿弥陀さまが称えてくれとおっしゃる「南無阿弥陀仏」、人生のいろいろな場面で称えさせていただく念仏の中に、常に今の自分を発見させられるのではないかと思うのです。
阿弥陀さまのお徳のすべてがこめられたお念仏です。だからこそ、南無阿弥陀仏と称えて安心させていただけるのです。
それは月を見て安心することと同じように、多くのご縁とお育てを頂いているからです。そのように気づかされるのも自己の発見ということになるのではないでしょうか。
みなさまお念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏