(2020年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の言葉は2014年8月の法語です。ですからこのホームページの「これまでの法話」の
コーナーで探してくだされば出てきますので読んでいただければと思います。
私はこの東井義雄先生の言葉を聞かせて頂くとき、頭に浮かびますのが、親鸞聖人がつくられたお正信偈の中の次の御文です。
「極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ)
我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)
煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)
大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)」
≪きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきである。私もまた阿弥陀仏の光明の中に摂め取られているけれども、煩悩が私の眼をさえぎって、見たてまつることができない。しかしながら阿弥陀仏の大いなる慈悲の光明は、そのような私を見捨てることなく常に照らしていてくださる≫
(『教行信証』現代語版 本願寺刊より)
親鸞聖人が、お正信偈の中で源信和尚によって顕わされた阿弥陀仏の光明のおはたらきを讃えられた一文ですが、実際には、源信和尚の著された『往生要集』の文をそのまま引かれています。
それは『仏説観無量寿経』に説かれる「一一光明(いちいちこうみょう) 遍照十方世界(へんじょうじっぽうせかい) 念仏衆生摂取不捨(ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)」
≪(阿弥陀仏の)その一つ一つの光明はひろくすべての世界を照らして、仏を念じる人々を残らずその中に摂め取り、お捨てになることがないのである(『浄土三部経』現代語版
より 下線部は私が足しました)≫
この文に続けて、「我もまたかの摂取の(光明の)中にあれども、煩悩、眼を障えて見たてまつらずと雖も、大悲倦(ものう)きことなしに常にわが身を照らしたまう」という文によって、一生涯みずからの煩悩にさえぎられて如来を肉眼ではっきりと見たてまつることはできないが、それができない私のために成就された阿弥陀さまの大悲の光明は常にわが身をてらしてくださるという源信和尚ご自身の喜びの言葉を、そのまま親鸞さまの喜びの言葉としてお示しくださったのです。(三木照國師著『三帖和讃講義』参照)
「拝まない者も拝まれている 拝まないときも拝まれている」
私という存在そのものが、自分が忘れていても、思ってもいなくても、常に拝まれている世界の中にあるということなのでしょう。
ところが、私たちがする「拝む」という行為は、自分にとって安心を与えてくださる相手を尊敬し感謝する姿であると思います。だから自分にとって都合の良いものを与えてくださる方に対しての行為であるとも言えるのではないでしょうか。
そんな私に対して
「そんなあなたが放っておけないのです。
そんなあなたを捨てることができないのです。
そんなあなたが大切なのです。…………」
と、はたらき続け、拝み続けてくださっている方がおられることをお示しくださった今月の法語であると思います。
私が拝まなくても私を思い、私が拝まないときも私を拝み続けてくださっている。この「拝み」は、「あなたといつも一緒にいて支え続けていますよ」ということなのだと思います。
それが阿弥陀さまの摂取の光明なのです。それがお名号(南無阿弥陀仏)となり、お念仏となって私の口から出てくださるのです。お念仏申す中に、阿弥陀さまの光明につつまれ、仏さまから拝まれていることに思いを馳せたいものです。
みなさまお念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏