(2020年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
12月の法語カレンダーの言葉は、元大谷大学教授の坂東性純先生(1932年〜2004年)の言葉です。(2015年法語カレンダー表紙の言葉です。)
「智慧・慈悲のはたらきそのものが仏なのです」と先生は申されます。「智慧」とは何ですか。「慈悲」とは何なのかと、問われると、はっきり答えられない自分を認識させていただきます。そこでこの二つの言葉を『浄土真宗辞典』(本願寺刊)で引いてみました。
「智慧」 (1)梵語プラジュニャ−の意訳。般若と音訳する。真如の理をさとる無分別智のこと。物事の道理を見きわめる認識力。智慧を獲得した状態を菩提、正覚という。(以下略)
(2)智と慧。智は梵語ジュニャ−ナの意訳、慧は梵語プラジュニャーの意訳。智は世俗諦を知る分別智を指し、慧は第一義諦を知る無分別智を示す。
そして、慈悲については、
「慈悲」 苦を除き楽を与えること。衆生をいつくしんで楽を与えること(与楽)を慈、
衆生を憐れみいたんで苦を抜くこと(抜苦)を悲という。
何か難しい気がいたしますが、仏の悟りとは、すべての物事の原因と条件それがもたらす結果をすべて見通し知り尽くすことができるということであろうと思います。ですから、私たち一人一人の苦悩をすべて理解することができるのが仏さまだということです。その上で、人々の苦しみを抜き去るためにはたらいてくださるのが仏さまであるということでしょう。
つまり、仏さま、遠い所にじっと鎮座しておられるのではなく、いつでも、私たちのためにずっとはたらいてくださっている存在であることをお示しくださった12月の法語です。
確かに、阿弥陀さまの木像や掛け軸の絵像は、じっとしていらっしゃるのですが、これは、私たちにはたらいてくださっている仏さまのお姿を、私たちが認識できるように現してくださったものなのです。
今はもうお浄土に還られましたが、久堀弘義先生は、「阿弥陀仏とはダイナミックな仏さまである」とよく口にされていました。当時は「そんなものなのかなぁ」程度の受け止めをしておりましたが、今、考えてみますと、それは、私に向かって「阿弥陀さまがはたらき続けてくださっていますよ」のお示しであったと気づかされることです。
『歎異抄』という親鸞聖人の言行録には、仏の慈悲とは、思いのままにすべての人々を救うことと示されています。
人々に本当の安心を与えたいという阿弥陀さまの願いが「南無阿弥陀仏」となって私にはたらき続けてくださるということです。
しかし、阿弥陀さまの智慧と慈悲のはたらきの中にある自分が中々見えてこないのです。ですから、縁あるごとに南無阿弥陀仏を称えさせて頂くことが大切なのだと思います。
南無阿弥陀仏