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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2021年2月の法話
「念仏者(ねんぶつしゃ)の人生(じんせい)は 
  まさに 慚愧(ざんぎ)と歓喜(かんぎ)の交錯(こうさく)」
          (2021年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
 今月の法語は、梯實圓(かけはし じつえん)先生の言葉です。
 梯實圓先生(1927〜2014)は、本願寺派の勧学であり、教学研究所の所長や高槻市にある行信教校の校長をつとめられました。
 私が最初に先生のお話を聞かせて頂いたのは、今から40年以上前になります。確か「正信念仏偈」についての講義でした。その時、先生の知識量のすごさに圧倒され何をお話しされたか理解することができなかったように思います。
 その後、ご法話や講演を何度か聞かせて頂いたことがありますが、先生のお言葉で今でも思い出しますのは、
 「蚊をたたいて殺してしまうことがよくあります。その時、ハッとする。自分の血を吸われたのだからたたいて殺して当たり前というのではなく、アッたたいてしまったという思いが起こる。そこに蚊のいのちを感じている自分がいるのではないでしょうか。」
と、申されたことです。(言葉は違うかもしれませんがお話の内容はこのようなものだったと記憶しています)
 「他者(人間だけでなくいのちあるものすべて)のいのちを感じる」それは私自身が生きていく上で本当に大切なものであると思いますし、それこそが宗教的課題であるのではないかと思います。

 今月の言葉に出される「慚愧」について、『広辞苑』ではその読みは「ざんき」と記されてあります。そしてその意味は
    @ 恥じ入ること   A悪口をいうこと、そしること
と示されています。
 そして『浄土真宗辞典』(本願寺出版社刊)には、「ざんぎ」という読みで記され意味は、
    罪を恥じること。慚と愧に分けて種々に解釈する。『涅槃経』(信巻引文)には
    三義を挙げている。
   @慚は自ら罪を作らないこと、愧は他人に罪をつくらせないようにすること、
   A慚は心に自らの罪を恥じること、愧は他人に自らの罪を告白して恥じ、そのゆる  
   しを請うこと、
   B慚は人に恥じ、愧は天に恥じることの三。
  なお、慚は他人の徳を敬い、愧は自らの罪を恐れ恥じることとする解釈もある。
と示されています。
 
 2つの辞典に書かれていることを比べてみますと自らの罪を恥じ入ることの内容の深さの違いを感じますがどうでしょうか。仏教でいう慚愧は仏さまを基準としていると思います。悟りの智慧は全部わからないけれども、仏さまはどう思われるだろう?と、考えることはとても大切なことのように思います。
 
 さて、今月の法語は、念仏を喜ぶ者の生活は、恥じ入らなければならない罪を犯して苦しむことと、喜ばしいと思えることが入れ混じるものであることを示された言葉だと思います。
 私たちはともしますと、生活が自分の思い通りに運んでいるときは、これでもう大丈夫と思い込んでしまうことが多いようです。しかし、人生何が起こるかわかりません。思いもよらぬことが起こり「最悪だ!」と、落ち込んでしまうこともあります。
 この度の新型コロナウィルス感染症にしましても、感染された方のリスクは測り知れないものがあるようです。一年前は誰も予想しなかった状況が昨春より続いて、多くの方々を苦しめています。その上コロナウィルスに感染された方に対して非難をしたり貶めたりそんな悲しい心を持っている私たちです。
 お念仏を喜ぶ者とは、阿弥陀さまの本願のはたらきを「お念仏(南無阿弥陀仏)」と受け取らせて頂き、そのはたらきに支えられていることを喜ぶ者ということだと思います。
 阿弥陀仏のはたらきを聞かせて頂き自らの煩悩のすがたを教えられて、自分の罪のすがた、喜びのすがた、どちらも持ち合わせ生きさせて頂いている自分であることを教えられます。
 そういう自分自身をそのまま包み込んでくださるのが阿弥陀さまです。その阿弥陀さまのおはたらきを喜ばせて頂くのがお念仏です。
                                    南無阿弥陀仏