(2021年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
今年は3月半ばより急に暖かくなりました。桜の開花も平年より10日ほど早かったように思います。その暖かさのせいだと思いますが、当寺(西法寺)の境内に昔からあります梅の木(トップページの写真)には、例年よりも早くその上、数も多く実をつけています。ヒラドツツジも満開になり、木々の新緑も目に眩いことです。こういう風景を目にしますと、何か新鮮な気持ちになり、ホッとするものを感じます。それは、私に向かって植物たちがはたらきかけ支えてくれているように感じるからだと思います。
自分がいろいろなはたらきに「支えられている」と受け取ることができることは生きていく上でとても大切なことであると思います。
本願寺から毎月3回発行される『本願寺新報』の5月1日号の「みんなの法話」欄に大阪の木本和行先生が「宗教」という言葉の意味について以下のようにお示しくださいます。
≪「宗教」とは私にとって大切なものであり、中心であり、支えとなり、要であり、教わり 導かれ、諭されるものであること≫
このように宗教ということは、私を支えて下さるはたらきに気づかせ、導いてくださるものであるということでしょう。
浄土真宗ということで申し上げるなら、阿弥陀仏が私の軸となり支えとなり、行動の要となってくださり、その阿弥陀さまが私の姿を教え、導き、諭してくださるということでしょう。 しかしながら、私はそのことを教えられても中々その通りに阿弥陀さまを頼りとして、仰る通りに生きていくことができない自分を見てしまいます。
「生涯聞法」という言葉を聞かせて頂いたことがあります。「一度聞いたらわかる」とよく言われますが、その日その時の自分の都合でコロコロ心変わりしてしまうのが私達ではないでしょうか。だからこそ、いのちある限り阿弥陀さまの変わることないおはたらきを聞き続けることの大切さを示してくださる言葉です。
さて、今月の法語は、藤元正樹(ふじもとまさき)(1929〜2000)先生の言葉です。
今月の言葉は『願心を師となす』(東本願寺出版刊)に出されている言葉ということです。
「己に願いはない」と申されますのは、自分自身が「仏と成ること」「悟りを開くこと」を願う心がないということです。
私たちの願いは、どちらかと申しますと、自分の思いがかなうこと、例えばお金が儲かること、健康で長生きすることなど、自分の欲望を満足させたいと願うことがほとんどだと思います。
お釈迦さまはそういう自己の欲望を満足させるためだけに生きているから苦しみ悩むのであることを教えてくださいます。ですから、そのような心を捨てることが大切であると諭されるのです。しかしながら、そのような心を完全に捨て去り、自分自身の心を完全にコントロールすることは非常に難しいことであることは言うまでもありません。それとともに、私たちの命がいつ終わりになるかもわかりません。
このように限られた命を生き、自分の欲望に振り回されて生きている私のことを、本当に大切に思い、必ず救わなければならないと願いかけてくださっている方が阿弥陀さまであることをお示しくださったのが今月の言葉です。
『歎異抄』の後序(あとがき)には
≪親鸞聖人がつねづね仰せになっていたことですが「阿弥陀仏が五劫もの長い間思いをめぐらしてたてられた本願をよくよく考えてみると、それはただ、この親鸞一人をお救いくださるためであった。思えば、このわたしはそれほどに重い罪を背負う身であったのに、救おうと思い立ってくださった阿弥陀仏の本願の、なんともったいないことであろうか」と、しみじみとお話になっておられました。≫ 【『歎異抄(現代語版)』(本願寺刊)】
とお示しくださいます。
私のことを思い続けて下さる阿弥陀さまのおはたらきを聞き続けたいものです。
南無阿弥陀仏