(2021年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派(東本願寺)の僧侶であられた高光大船先生(1879〜1951)の言葉で、2000(平成12)年に先生の50回忌に出版された『高光大船の世界 道ここに在り』(東本願寺出版刊)に収録されている一文であり、先生56歳の時に書かれたものだそうです。
私はこの言葉を読んだときに、『蓮如上人御一代記聞書』に示されている一文を思い浮かべました。(よく引用される御文ですのでご存じの方も多いと思います)
『聞書末(195)』には以下のように書かれています。
「人のわろきことはよくよくみゆるなり。わが身のわろきことはおぼえざるものなり。わが身にしられてわろきことあらば、よくよくわろければこそ身にしられ候とおもひて、心あらたむべし。ただ人のいうことをばよく信用すべし。わがわろきことはおぼえざるものなるよし仰せられ候ふ」
【「他人の悪いところはよく目につくが、自分の悪いところは気づかないものである。もし自分で悪いと気づくようであれば、それはよほど悪いからこそ自分でも気がついたのだと思って、心をあらためなければならない。人が注意してくれることに耳を傾け、素直に受け入れなければならない。自分自身の悪いところはなかなかわからないものである」と蓮如上人は仰せになりました。】≪蓮如上人御一代記聞書 現代語版 本願寺刊≫
蓮如上人は自分の姿を自分で見通すことなどできないものであることを示され、他の人々から教えられた自分の姿を素直に受け入れることの大切さを教えてくださっています。
テレビドラマなどを見ていますと「自分のことは自分が一番よく知っている」というセリフを聞くことがあります。そのセリフを聞いて頷いてしまう私がいるのですが、本当に私たちは自分自身のことがすべてわかっているのでしょうか。外見でも自分の目で見ることのできない箇所はいくつもあります。さらに体の内部はとても見ることはできません。そして、自分の心はどうでしょうか。心とは何かと問われると、私は「自分の思い」としか答えられそうにありませんが、その自分の思いをすべて、言葉にして表現することなどとてもできません。それが私という人間です。
さて、親鸞聖人はご自身のことを「煩悩成就の凡夫」とか「煩悩具足の凡夫」と教えられます。それは煩悩に左右されて生きているのが私であり、私とは煩悩そのものであるとお示し頂いているとも受け取れます。また煩悩という眼鏡をかけて、ものを見て正邪善悪を判断している自分であることを表明されたことではないかと思います。
本当は何が正しくて何が悪なのかわからない、物事の本質を見極めることができない自分であると申されているようです。
親鸞聖人の語録である『歎異抄』の後書きには、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」と申され、その理由は、阿弥陀如来がご覧になって「善である・悪である」といわれていることをすべてわかるのなら善悪を判断することができるが、煩悩まみれの私にはわからないのであると申されています。
自己の判断で善悪を裁いていくことの危うさを常に抱えている私どもであります。できるだけ阿弥陀さまを仰ぎながら判断したいものです。
今月の法語で、高光先生は、私どもに、自分自身のことを心底からわかる眼を私たちは持っていないということをお示しくださいました。それは、煩悩という眼鏡を通して他の人や物事を見て善悪などの判断をし、間違いを犯してしまう自分であることに気づいてほしいというお示しであるとも受け取らせて頂きたいと思います。
私のことを常に照らし支えはたらき続けて下さる阿弥陀如来さまです。そのはたらきを聞き続けさせて頂くことが大切なのだと思います。
南無阿弥陀仏