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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2021年10月の法話
「老(お)いが、病(やま)いが、死(し)が
       私(わたし)の生(せい)を 問(と)いかけている」 
          (2021年 真宗教団連合「法語カレンダー」10月のことば)
 今月の言葉は真宗大谷派の学僧、二階堂行邦先生の言葉です。
 私自身は、二階堂先生のことは全く知りませんでした。もちろんそのお名前も今回初めて耳にしたことです。
 少し調べてみますと、先生は1930(昭和5)年に東京の真宗大谷派専福寺にてお生まれになられ、京都の大谷大学で学ばれ、お父様の早世ということで、23歳の若さで住職を継がれたそうです。自坊だけでなく積極的な布教活動で多くの念仏者をお育てになられ2013(平成25)年に逝去されたということです。

 今月の言葉は、先生の著書『自分が自分になる』(同朋選書31-真宗大谷派宗務所出版部)の中に出されている言葉です。
 そこで、今月の言葉の前後の文章を引用させて頂きます。

 「しかし、人生の体験は、結論を与えるものではなくして、むしろ人生体験の事実からその人の人生が問いかけられているのです。老いが、病いが、死が、私の生を問いかけているのです。「これでいいのか?」と。しかし自分の合理主義的な思考では、その問いに答えられないのです。それで苦悩する。それが人間なんですね。」(下線部が今月の言葉)

 先生は、生老病死という人生苦を自分だけの体験として固執し、自分だけが苦しみを背負って生きているという思いに陥ってしまい、自分自身の人生を結論づけてしまいがちなのが私たち自身であると教えられ、続けて、上に引用した文章のように述べられています。
 先生は、老病死という自己の体験が、私に何を問かけているのかと受け取ることが人生にとって大切なことであるとお示しくださっているように思われます。

 体が老い病気になり死んでいく、それを苦しみと感じるのが私たちです。今、新型コロナ感染症で、多くの方々が苦しみをかかえておられます。感染をして病院に入ることができない方、重症になり本当に苦しんでおられる方、お亡くなりになられ火葬をされお骨になってから遺族の方のもとに帰られる方(入院されて後は面会できず、亡くなられてご遺体とお別れもできません)、感染者の家族身内の方(住んでいた地域に住めなくなった方もおられると聞いています)などです。
 そのような方々のお話を聞かせて頂きますと、「本日の感染者○○名、重症者○○名、死亡者○○名……」と、テレビなどで発表されることが、気にはなるのですが、数の問題じゃないという思いがこみ上げてきます。特に当事者の方々にとっては、今、目の前にある現実にどう対処するか。どう乗り越えるか。本当にどうしたらいいのか。大きな悩みになることだろうと思います。
 ついつい数だけ見てしまい、その向こうにある現実を見ることができなかった自分でありました。それが、実際に感染症で亡くなられた方の還骨勤行(お骨上げのお経)を頼まれ、色々お話を聞かせて頂くことで、今まで数だけしか見えていなかった自分、他人事であった自分に気づかされたことでした。
 (それでも、色々お話を聞かせて頂くと「自分や自分の家族は絶対感染したら駄目だ」と思ってしまいます。とても自分勝手なような気がしますが、それが本音です)

 新型コロナウィルス感染症の感染拡大の中で、気づかされたことがたくさんあるはずだと思います。数多くのことが私に問われているかもしれません。問うべきことが何かも分かっていない自分かもしれません。お恥ずかしいことだと思いますがそれが自分であるというこでしょう。ただ、生きている様々な場面で自分自身の在り様が問われていると受け止めることが大切なのだとお示しくださって今月の言葉だと思います。

 しかしながら、私が何かもわからず生きている、そんな私を丸ごと包み抱きかかえてくださるのが阿弥陀さまという仏さまです。そんな私のことを大切にし、絶対に捨てないとはたらき続けてくださる方と一諸というだけで安心できるのです。そうなりますと、老も病も死も阿弥陀さまに遇うご縁であったと受け止めることもできます。私たち一人ひとりのいのちは仏さまになるために頂いた大切ないのちだと……
                                    南無阿弥陀仏