(2021年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の法語は浄土真宗本願寺派の学僧、中西智海先生(1934〜2012)の言葉です。
先生は、富山県氷見市の西光寺というお寺に生れられ長じて住職となられるとともに本願寺派の関係学校で長年にわたって教鞭をとられ、また、本願寺派の南米開教区の総長をお勤めになられたこともあり、海の内外で念仏者を多くお育てになられました。
今月の言葉は、『浄土真宗を理解するために』という書物に収められたものだそうですが、今手元にありませんので調べてみましたら昭和42年本願寺出版協会から発行されたということです。
さて、今月の言葉について、「人間とは何か」「人間としてどう生きる」「何のために生れてきたのか」「自分は今何のために生きているのか」等々というような「人間としての原点」が問題とされていると受け止めさせていただきました。
先生は「人間そのものの目ざめを呼びかけるものが如来の本願である」とお示しくださいます。
それは、何のために人間として生まれ生きているのかという疑問に答えを与えるものが阿弥陀如来の本願であるということを示されているのではないかと思います。
親鸞聖人は高僧和讃(天親菩薩讃)に詠まれています。
本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし
≪現代語訳≫
本願のはたらきに出会ったものは、むなしく迷いの世界にとどまることがない。あらゆる 功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、濁った煩悩の水であっても何の分け隔て もない(「浄土真宗聖典三帖和讃現代語版」より)
そして、正像末和讃の最初には
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり
≪現代語訳≫
阿弥陀仏の本願を信じるがよい。本願信じる人はみな、摂め取って決して捨てないという 利益により、この上ないさとりを開くことができる。(「浄土真宗聖典三帖和讃現代語版」より)
と、お示しくださいます。
このように聞かせて頂きますと、自分の今までの「生」に対する態度は、ただむなしく無意味なものだったのかと疑問に思います。
しかし、ある先生が言われた言葉を思い出します。
「浄土真宗は、過去は問わないよ」
そうですね。過去を背負って生きていることは間違いのないことですが、今から先に向かって生きていくことしかできません。その未来を安心して生きていくことのできるようにはたらいてくださっているのが阿弥陀さまなのではないでしょうか。
二つのご和讃をいただきますと、今生きている私が悟りの仏と成るべき身であるとお示し頂いている気がします。
どんな人間であろうと必ず悟りの仏にするというのが阿弥陀さまの本願のはたらき(南無阿弥陀仏)です。その本願のはたらきに出会わさせて頂くことで「仏とならせて頂く身の自分がここにいる」と気づかせて頂くのです。それが人間として生まれさせて頂いた者の「目ざめ」であるとお示しくださった今月のことばであると受け止めさせていただきます。
南無阿弥陀仏