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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

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浄土真宗とは

今月の法話

2022年2月の法話
「ふみはずしましたが 気がつけばここも 仏の道でございました」
          (2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
 今年の寒さは格別のような気がします。北日本や日本海側の地方では何度も大雪に見舞われ雪による被害が多発しているようです。その上、新型コロナウィルス感染症の感染拡大が止まらず1月末の時点では全国で8万人以上の方が感染しておられます。
 自分の思いとは関係なく、条件が整えば苦しみがやって来るということです。そういう中を生きているのが私たちです。そんな私たちが絶対に大丈夫であるという境地が「仏のさとり」ということであると思いますが、その境地は凡夫の私には、はかり知れない世界です。

 「仏道(ぶつどう)」という言葉があります。私は、「仏の悟りを目指して生きていく道」だろうと、自分で勝手に解釈していたのです。そこで、『岩波仏教辞典』(岩波書店刊)で
「仏道」という言葉を引いてみました。そこには、次のように記されてありました。

 【〈仏道〉と漢訳された言葉の原語は一つには特定はできない。しかし、中で最も多いもの はbodhi(悟り・目覚め)であろい、その場合〈仏〉に対応する原語はつかない。つまり〈仏〉 は漢訳者の補いである。〈道〉はbodhiの意訳語、〈菩提〉とも音写される。〈道〉は、老 荘思想の究極的な真理を表す言葉で、漢訳者がそれを借用したもの。この他の原語の場合も 同じことがいえ〈仏道〉が仏への道、悟りの道程を意味することは本来ない。なお、日本で は古来〈仏の道〉と訓読されることの多い語で、その字義通り、仏の説き示した教え、菩提 またはそれに到る道を意味し、時にそれを達成するための修行などをさすこともある。】
 このように、仏道という言葉の表す本来の意味は、「さとり・菩提」そのものを示す言葉であることを知らされたことです。

 さて、今月の言葉は、お念仏を喜ばれ、その喜びを多くの詩に表し残してくださった念仏詩人の榎本栄一さん(1903〜1998)の言葉です。
 ところで、榎本さんは何を「ふみはずしました」と言われるのでしょうか。後で「仏の道」と出されていますので、おそらく踏み外されたのは「仏の道」ということになるのだと思います。
 「ふみはずす」という表現をされていることですから、仏の悟りへの道を踏み外したということになるのだと思うのです。しかし、それ以上に、その道自体(自分で正しいと思い込んでいた道)が仏への道ではなく間違っていたということも申されているのかもしれないとも思うことです。
 しかし、どんな道を歩いていても、どんな人生を歩んできても、阿弥陀さまのおはたらきに気づかせていただき、どこに居ても阿弥陀さまのお慈悲の中にいる自分であったと喜ばせていただけることを表された法語であると思います。

 先に仏教辞典により「仏道」という言葉は、本来「さとり・菩提」ということを示すと教えて頂きました。そして、日本では古来より「仏の道(ほとけのみち)」と訓読し、「さとりへの道」という意味で使われると示してくださいました。
 「仏のさとり」はさとりの世界に留まっているものではありません。
 仏とは、「自覚、覚他、覚行窮満」(じかく、かくた、かくぎょうきゅうまん)といわれます。自らさとり(智慧の完成)、他の人々をさとらしめる(慈悲行の完成)が、完全であるので覚行窮満と言われるということです。

 こうしてみますと、「さとりを開いて仏さまとなられた」ということは、その仏さまは、すでに人々に対して救いのはたらきをしてくださっているということを表しています。
 阿弥陀さまの救いのはたらきの対象は、十方衆生です。あらゆる生きとし生けるものと申し上げていいのでしょう。そして、それは私です、ということです。
 私が何をしていようとも、どこを歩いていようとも絶対に見捨てませんよと「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏…」呼び続け、はたらきつづけてくださっている阿弥陀さまですとお示しくださった今月の法語です。

                                    南無阿弥陀仏