(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」3月のことば)
ようやく寒さも一段落の様子です。境内の梅もそろそろ満開を迎えようとしています。いよいよ本格的な春の到来ということになりそうです。
ある辞典で見つけたのですが、「春風の中に座するが如し」という言葉があります。春のそよ風が万物を成長させるように、慈愛あふれる師の指導によって学徳の修行を助られることを意味する言葉です。
私たちは、特定の師という方がおられなくても、自分のことをいつも支えてくださる方々の存在があったればこそ今ここに居るという思いを大切にしたいものです。
さて、今月の法語は、本願寺派の勧学であった原口針水和上(1808〜1893)の言葉です。原口和上は江戸時代末期から明治時代中期に活躍された方で、仏教だけでなく神道やキリスト教についても深い知識を持っておられたということです。
今月の法語は、お念仏(南無阿弥陀仏)についてのお示しですが、私どものことをお念仏が変わりなく支えて続けてくださっていることをお教えくださった法語であると受け取らせて頂きました。
法語の意味は「私が口で称える南無阿弥陀仏、その私の声を自分の耳で聞いてはいるのですが、この南無阿弥陀仏は、お浄土にお前を連れて行くぞと、よびかけてくださっている親(阿弥陀如来)さまのよび声にほかならない」ということです。
西本願寺の大谷光真前門主が著された『朝には紅顔ありて』(角川書店刊)には「南無阿弥陀仏」について次のように書かれています。
〈もともとは、インドのお経から発音を写したもので「ナモ・ア・ミタ・ブッダ」という言葉から成っています。この「南無=ナモ」は、本来「あなたを信じます」、「あなたに従います」、「あなたに委ねます」といった意味をもっています。「ア・ミタ・ブッタ」とは、「限りない、はかることのできない仏」という意味です。何が限りないかというと、「ひかり」と「いのち」です。ひかりが限りないとは、どんなところまでも救いの光を照らしてくださることを示し、いのちが限りないとは、いつでもいつまででもどんな時も、ということを表しています。つまり、時間的にも空間的にも制限なく、いつでもどこまでも私を照らしてくださる仏さまがアミタブッタ(阿弥陀仏)なのです。
よって「南無阿弥陀仏」とは「この阿弥陀仏にすべてをまかせます」という私たちのこころを表現した言葉になります。〉(168頁〜167頁から引用)
そして、お念仏を称えられるようになった人は、阿弥陀さまを身近に感じられている人であることと示され、そうなると、お念仏が阿弥陀さまへの単なる挨拶でなく、阿弥陀さまからよびかけられていたことに気づくことでしょうとお示しくださいます。さらに、私がよびかける以前から、阿弥陀さまは私に「心配いらないよ、まかせなさい」とよんでいてくださっていること、「南無阿弥陀仏」とは、阿弥陀さまのほうから私たちに向かって「まかせなさい」とよびかけるくださる言葉であることお示しくださいます。
いつでもどこでも私を心配してくださる阿弥陀さまからのよびかけ、そこにまた、「ありがとう」という感謝のこころから口をついて出る、それがお念仏です。と前門主さまは申されています。
お念仏は私を支え安心させるために、阿弥陀さまから私に向かってよびかけ続けてくださっている声なのです。ですから、元々阿弥陀さまから頂戴した言葉なのだということです。
浄土真宗では昔から、阿弥陀さまのことを大悲の親さまと申し上げてきました。親は子供を見て安心させるために、はたらき、決して捨てることがないのです。
親さまから頂いたお念仏(南無阿弥陀仏)、私が称えるそのままが、親さまからのよび声だったのです。大悲の親さまから「いつも一緒にいて支えています。安心してください」とのよびかけを頂いている私たちです。お念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏