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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2022年4月の法話
「如来の本願は 風のように身に添い 地下水の如くに 流れ続ける」
          (2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
 4月と言えば「サクラ咲いたら一年生、ひとりで行けるかな……♪」と、新入学をテーマにしたこの歌が聞こえてきそうです。その歌の題名は「ドキドキドン!いちねんせい」というのだそうです。今回調べて初めて知りました。
 先日教えてもらったのですが「さよならぼくたちのようちえん」(新沢としひこさん作詞)(1996年発表)という歌があるそうで、最近では卒園式に合唱される園も多くなっているようです。その歌詞に「♪…さくらの花びらふるころは ランドセルの一年生♪」というフレーズがあります。
 私などは「桜咲いたら一年生♪」、4月の初めは桜が満開になっているというイメージが固定してしまっているのですが、考えてみましたら入学式の時に桜の花が散り初めている時やほとんど散ってしまっている時もあります。「桜の花びら散るころは、ランドセルの一年生」と表現される方が現実に合っているよう思われます。
 地球温暖化の現象でしょうか。確かに桜の開花が幾分早くなっているように思いますのは私だけでしょうか。桜は4月の花と決めつけ凝り固まった考えで、自己中心に物事を判断してしまうのが私という人間の姿ということだと思います。そんなことが自分の苦悩の因となっていることを教えてくださるのも仏教です。

 さて、今月の法語は、大谷派の僧侶で学者であられた平野修(ひらのおさむ)先生(1943〜1995)の言葉です。平野先生は九州大谷短期大学の教授で、真宗大谷派金沢教区真宗研究室の初代室長にも就任されていた方です。
 如来の本願というものは、風のように私を包んでいてくださる。そして地下水が四方八方に広がり潤を与えるようにはたらいてくださってあるというお示しが今月言葉の表してくださるところであると思います。
 
 阿弥陀如来の本願とは、衆生救済のための根本となる願の意で、(『仏説無量寿経』の中に説かれています)阿弥陀如来の四十八願中、特に第十八願を指していうと『浄土真宗辞典』には記してあります。
 第十八願の文言は
       設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者
       不取正覚 唯除五逆 誹謗正法
 〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて、乃至
  十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉(『浄土真
  宗聖典(註釈版)』)
 【わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、
 わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、わたしは決してさとり
 を開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。】
 (『浄土三部経(現代語版)』)
 
 この仏の本願が、はたらいてくださっているというのです。どういうことでしょうか。
 梯實圓先生は『親鸞聖人の信心と念仏』という著書の中で、
 《本願とは、阿弥陀如来さまが生きとし生けるすべての者にかけられている願いのことで
 す。…(中略)…その第十八番目に誓われている願には、「お願いだから念仏を申して、
 私の国に生れてくれよ」と誓われています》
と、お示しくださいます。
 本願のはたらきとは、私に向かって阿弥陀さまがよび続けてくださっているということなのでしょう。
 そのはたらきを私の身に添う風と受け止め、たゆみなくよびかけ続けておられる阿弥陀さまのはたらきを絶えることなく地を潤す地下水と味わいお示しくださった今月の言葉です。
 たとえ自分自身の殻に閉じこもり自己中心の価値判断をしている私であっても絶対に見捨てることなくはたらき続けてくださっているご本願なのです。そのはたらきが「南無阿弥陀仏」となって私に届けられているのだと思います。
 皆さま、お念仏申しましょう。
                                    南無阿弥陀仏