(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派(東本願寺)の明円寺の住職で宗会議員をされていた松扉哲雄(しょうびてつお)師(1919〜1999)の著書『深く生きる』(1984年
真宗大谷派宗務所出版部刊)という書物の中の言葉です。
仏教は、私たち自身の存在が、不思議で、有り難いものであると教えています。浄土真宗本願寺派『勤行聖典』には「礼讃文(三帰依文)」が、聖典の最初の方に記されています。もう30年以上前ですが、あるお寺の法座にお参りさせて頂いた時、お勤めの後に、この「礼讃文」を皆で唱和されていたことでした。自坊ではそういうことがなかったので少し驚いていたのですが、昔は、勤行に引き続いて「礼讃文」を唱和し、ご法話を聞かせて頂くという形が多かったのだろうと思われます。
「礼讃文」は以下のような文言です。
《人身受けがたし、今すでに受く、仏法聞きがたし、今すでに聞く。この身今生にむかって 度せずんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん。大衆もろともに至心に三宝 に帰依したてまつるべし。
みずから仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大道を体解して無上意をおこさん。
みずから法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
ふかく経蔵に入りて智慧海のごとくならん。
みずから僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、
大衆を統理して一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇うことかたし。我今見聞し受持することをえた り。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。》
ここに、仏法を聞く者の決意ともいうべき姿勢が示されています。ただ教えを聞かせて頂いている私自身のことを思いますと、誠に恥ずかしいことです。しかしその恥ずかしい自分だからこそ仏法(ご本願おはたらき)を聞かせて頂くことが大切なのでしょう。礼讃文は自己の姿と聞法の大切さを教えてくださるものであったのです。
そして、ご文の最初には「人身受けがたし」(人間として生まれさせて頂くことはたいへんむつかしい)と示されます。
自分がどのようにして生まれてきたのか。その経路(と申していいのかどうかわかりませんが)を考えてみると、私の父母→祖父母→曾祖父母→……と、さかのぼって自分のいのちの由来を尋ねてみてもどこまで続くのかわからなくなってしまいます。
よくご法話で聞かせて頂くことがあります。父母が2人、祖父母が4人、曾祖父母が8人、その前が16人と10代遡ったら1000人以上、20代遡ったら100万人以上になりますと。
こんなにも多くの方々のいのちのご縁を頂き私という存在が今あるのだということです。繋がりがあるという理屈はわかりますが、ご縁のある方々のことすべてがわかるはずもありません。不思議なものです。それと同時に自分自身がここに居る有り難さも気づかせて頂きます。
しかし、それをそのまま、心底から有り難いという気持ちになるかと言えば、そうは簡単にいきません。自分がここに居るのが当たり前、思ったものがある程度手に入るのが当たり前、ご飯作ってもらって当たり前……と、自分を成り立たしめてくださっているはたらきを当たり前のこととしてしか見ることのできないのが私であるということです。
今月の言葉は、自分の生きていることのが当たり前で、自分の意にそぐわないものに不足を言って生きている私たちの姿を教えてくださっています。松扉先生は、そんな私たちの姿に気づかせるのは真実を見る眼であるとも『深く生きる』の中でお示しくださるようです。
その真実を見る眼は、仏法によって、阿弥陀さまのおはたらきを聞かせて頂くことによって与えられるものなのです。
南無阿弥陀仏