(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
今月の法語は、浄土真宗本願寺派の奈良県の専立寺前住職で大阪大学教授・龍谷大学教授などを歴任された哲学者の大峰顕先生(1929〜2018)の著書『本願海流』(2001年
本願寺出版社刊)という書物の中の言葉だそうです。
先生のその著書が私の手元にありませんが、先生の『浄土の哲学』という著書の序文に、以下のような文章があります。
先生はドイツの哲学者・神学者であるシュライエルマッハーという方の宗教についての説示を紹介されています。
彼(シュライエルマッハー)は、宗教とは宇宙の直感と感情であり、無限を感じること
であると言っています。宗教とは、宇宙を感じること、無限者の中に自分が抱かれていて、 いつでも無限のものに生かされているということを、赤ん坊のような気持になって感じるこ とである。自分の丸ごとを宇宙に任せて生きること、それが宗教の本質だというのです。
…(中略)…
今日、浄土真宗だけでなく、一般に宗教心というものが日本人の生活に縁遠くなってい
るとしたら、無限なものを感じ取る心が非常に鈍くなってきているからではないでしょう か。宗教の本質は、宇宙という無限者を感じる人間の心のいとなみ以外ではないと私も思
います。
そして、哲学者の西田幾多郎先生が、「日本文化の特徴は情にある」と言われたことについて書かれています。
人間の知性とか意志は無限なものにつながることはできず、どこまでも有限なものとの
関係にとどまるというわけです。何故かと言うと、情は能動的ではなく受動的だからです。 情は受動的だから、無限なものをそのまま受け入れることができる。形に限定できない無
限、無限なものを無限のまま受け取る、そういう働きが情にはあります。
引用が大変長くなってしまいましたが、このような大峯先生の文章を読ませて頂きますと、今月の法語も頷けると思うのです。
先生は「宗教の本質は宇宙という無限者を感じる心のいとなみ」と申されています。それは私たちで申せば、無量寿・無量光の阿弥陀仏とひとつ(一体)であるという感覚なのではないでしょうか。
そのことを表してくださったのが、今月の言葉ではないかと思います。確かに、自分の心も身体も阿弥陀さまが作られたわけではありませんが、我が身我が心を阿弥陀さまから頂いた誠に大切な有り難く尊い「いのち」と受け止めさせていただける世界を持つことのすばらしさを表現された言葉であると思います。
妙好人の浅原才市さん(1850〜1933)に
わたしゃ久遠の悪人で
あなたは久遠の阿弥陀仏
二つ一つのなむあみだぶつ
世界全体なむあみだぶつ
なむあみだぶつは世界全体なむあみだぶつ
わたしゃあなたの中にとられ
なむあみだぶつなむあみだぶつ
という詩があるそうです。
(大分県宇佐市の勝福寺さまのホームページから引用させて頂きました)
阿弥陀さまのおはたらきをが私を包み、どんな悪人の私であっても、そのまま受け取ってくださる阿弥陀さまのことを喜んでいかれた才市さんのお姿がまぶしいことです。
南無阿弥陀仏