(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」8月のことば)
暑中お見舞い申し上げます。今年も猛暑になっております。皆さま何卒お身体ご自愛ください。
さて、今月の法語は、真宗大谷派の宮城(みやぎしずか)先生(1931〜2008)の『真宗の基礎』(真宗大谷派宗務所出版部)という書物に出されている言葉です。先生は大谷派の教学研究所長や九州大谷短期大学の教授を歴任された方です。
『真宗の基礎』という書物には以下のよう文章があるそうです。
……(仏法から)いかに自分が遠くあるかと、我が身を深く悲しむ心に仏法のことばが響くのであって、自分はいちばん仏法の近くにおり、仏法をよく知っている、我よりほかは存知したるものなしと、そう思いあがっている者はいよいよ仏法から遠くなる。……
(下線部が今月の法語)
この文を読ませて頂きますと、自分は仏教を知っている、わかっているというような思いを持っている人は、本当は仏法からかけ離れた者であることを表し、自分は仏法からかけ離れた生活をしている悲しい者であると自覚し、そのような自分を嘆いている者にこそ、仏の教えが伝わっているのであるとお示しくださっていることがわかります。
本願寺第8代宗主の蓮如上人の法語や訓戒及び上人の行動などを収録された『蓮如上人御一代記聞書』という書物があります。その第213条に次のように申されています。(現代語版で引用させて頂きます)
蓮如上人は、「ご法義をよく心得ていると思っているものは、実は何も心得ていないのである。反対に、何も心得ていないと思っているものは、よく心得ているのである。弥陀がお救いくださることを尊いことだとそのまま受け取るのが、よく心得ているということなのである。物知り顔をして、自分はご法義をよく心得ているなどと思うことが少しもあってはならない」と仰せになりました。…(以下略)…
仏教の勉強をして、お話を聞いている自分が少しでも知識が増えると、いかにも仏法をよくわかっていると思い込んでしまうことの危うさを指摘されているのだろうと思います。私たちはどうしても知識を求め自分の周りの人々より多くの知識を持っていることが素晴らしいことのように思い込んでしまっているのではないでしょうか。
しかし、仏法を聞くということは、どうもそうではないように思います。
親鸞聖人がご自身のことを悲しみ嘆いて詠まれたご和讃があります。『愚禿悲嘆述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)』と申します。そのご和讃を少し紹介させて頂きます。
浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし
悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ
このように親鸞さまは、自らのお姿を嘆き悲しみをもって表されていますが、それは仏法を聞き抜かれ阿弥陀さまに照らされ教えられた自己のお姿を吐露されものだと思います。
仏法を聞かせて頂くことで、仏さまとかけ離れた自己の本当の姿に気づかされ、そんな者を救わずにはおれない阿弥陀さまであることをお示しくださった祖師親鸞さまであります。
なぜ、阿弥陀さまがいてくださるのか。なぜ「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えるのか。絶対安心の仏のさとり世界からどんどんかけ離れていく私がいたからでありました。そのことを悲しいことと気づかされるのが聞法なのでしょう。有難いご縁に恵まれた私たちです。大切にしたいものです。
南無阿弥陀仏