(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
残暑お見舞い申し上げます。少しずつですが、涼しくなって来たことを感じさせてくださるこの頃です。この時期、特に早朝、涼しい自然の風の心地よさに何故か幸せを感じます。この平穏な状況がいつまでも続けばいいとも思います。
しかし、それは瞬間のことです。すべては諸行無常とお示しくださいますように刻々と変化して、私を取り囲む状況も、いや、私自身も変わっていきます。幸せを感じていた次の瞬間に不幸を感じることになるかもしれません。そんな中に生きているのが私たちなのです。しかしそのことが心底からわかっていない、理屈上はわかっているつもりでも自分のこととなると自分自身も周りの状況も見えなくなってしまうのが私という人間であることを教えてくださるのが仏教であると思います。
そういう自分自身の姿と周りの状況を見抜く力がない私であります。だからこそ、阿弥陀さまは私全体を包み込み安心させようとはたらき続けてくださっているのです。
さて、今月の法語は、浄土真宗本願寺派の島根県の光善寺前住職の波北彰真先生(1937〜2003)の『人生のほほえみ−中学生はがき通信−』(本願寺出版社)という書物に出されている言葉です。
波北先生をネットで調べていましたら、『山陰中央新報』(本社・松江市)という新聞の『明窓』というコラム(2021年11月28日付)に次のような一文がありました。
仏の教えを分かりやすく説いた文章「法語」が、挿絵とともに月ごとの暦の上に記され
た『法語カレンダー』(真宗教団連合)が毎年発行されている。表紙と合わせた13編の
法語を、編集者がえりすぐる。2022年版の9月のページに、江津市波積町にある光善
寺の前住職、波北彰真さんの<手を合わせ 仏さまを拝むとき わたしのツノを 知らさ
れる>が選ばれている▼1974年1月から毎月、町内の中学生に言葉を添えたはがきを
送ったことを機に長く続いた『中学生はがき通信』が出典である▼「大人の私たちが子ど
もたちへ言って聞かせてやるではなく、自分の生きざまを問いながら、自分自身に語りか
けると同時に子どもたちへも語りかけることにした」。本紙の連載企画「いわみ談話室」
で、はがきを届けた思いの一端を語ってもらった。ちょうど21年前のきょうのこと▼ツ
ノ、という言葉にぴんとくる人もいるだろう。素朴な信仰心を持つ「妙好人」として世界
に紹介された、温泉津の浅原才市(1850〜1932年)。画家に自らの頭に角が生え
た肖像画を書いてもらったのは有名な話。元湯の近くにある広場に銅像が立っている▼波
北さんの『中学生はがき通信』に、こうある。<ツノは心の姿 むさぼり・腹立ち・おろ
かさ 他人のツノは よく見えるが 自分のツノには 気がつかない>。師走を前に自ら
の至らなさを省みる。(万)
波北先生は、才市さんの角は、むさぼり(貪欲)・腹立ち(瞋恚)・おろかさ(愚痴)の三毒の煩悩を表していると示してくださっています。三毒の煩悩は3種の代表的な煩悩のことで衆生を害する根元であるとされています。
貪欲(とんよく)は「むさぼり」と示されますように、自分の好む対象に向かってむさぼり求める心を起こすことです。
瞋恚(しんに)はいかり・腹立ちのことで、憎しみ怒り、心が安らかではないことです。
愚痴(ぐち)は真実の道理に無知なことです。本当のことを知らないのに知っていると思い込んでいる、おろかさを言います。
他の人の姿を見て、このような三毒の煩悩に振り回されていることはわかりやすいけれど、それが自分の姿であることはなかなか気づかないものであることを示してくださっています。
しかし、その自分の姿・おろかさを、阿弥陀さまと向き合い、手を合わせお念仏させて頂く中に知らされる。受け入れたくない自分のすがたを、阿弥陀さまに包まれて、受け入れていけるようになり安心させられるということをお示しくださった今月の言葉だと思います。
お念仏、大切にしたいものです。
南無阿弥陀仏