(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の言葉は、富山県の宇奈月温泉にある善巧寺の雪山隆弘さん(1940~1990)の著書『ブット・バイ-みほとけのおそばに-』という書物の中にある一文です。
この本は平成3年の2月に発行されています。随分前に読ませて頂いたことでしたが、今回もう一度読ませて頂き有難いことでした。
雪山先生は平成2年9月に50歳で往生されました。この書物は「道-ある宗教家のガン体験」というサンケイ新聞の「心」の頁のエッセイとして書き綴られものを先生が往生されて後に、そのエッセイをまとめられ出版されたものです。
本文中に「生と死」という章題のエッセイがあります。少し長くなりますが引用させて頂きます。
宗教家の私は自分の人生の締め切りについて考えて、‶私の生死出ずべき道″について筆を進めてゆこうとしていた。ところが、世の中はどうもまだ、こういう問題についてはタブー視していて、なるべくなら、死の問題についてはチャックをしめて
《二十四時間戦いましょう》とか《食う・寝る・遊ぶ》とか、まあ、そういうたぐいの、元気さとモノの豊かさを歌っていれば良いという風潮が強く、そんな中へポチッと《あんた、人間の死亡率は100%だぜ》
なんて冷水を浴びせられるととてもヤーな気分になっちまう人が多いということではなかろうか。
じつはそのことがそもそも問題なのであって、人間は生と死を合わせて持っている。生きているということは死に近づいているということだし、死について考えるということは、まさに生きているということなのだ。その点を明らかにしてゆくのがこのコラムの本題「道」の道たるゆえんではないかと思うに至ったのだ。そんなわけで、これからしばらくはサブタイトルはわきの道づれに、人間の心の問題に触れてみたいと思う。
…(中略)… さらに道といえば人生のみでなく、仏道を意味するものである。仏道とは、悟りへの道。心豊かに生き心豊かに死んでゆける道のことだ。 …(中略)… その道を通して悟りに至るのだ。生きる道、死にゆく道を見つけ出すのだ。それを道という。すべての道はローマではなくて仏に通じるのだ。(『ブット・バイ』23p~25pより)
長い引用になりましたが、雪山先生はガンになられ余命宣告を受けられ死を目の前にしてこの文章を書かれています。自らの死を乗り越えてゆく道を求めお示しくださった書物だと思います。
そして先生は次のように申されています。
さて生と死を一つにみるということはどういうことかというと、生きているということは刻一刻死に近づいているということを知り、死に気づくことによって、いま生きているということの意味深めてゆくということにもなろうかと思うが抽象論は好みではないので、具体的にいってみよう。
「人間はね、自分が生きてきたように、死んでゆくんですよ」
ある高僧の言葉だが、正解ですね。しめ切り間ぎわであわてたり、飾ったり、祈ったり、すがったりしても、何にもならんということだ。ちょうど私が最初の入院をした頃出た本に「人間死んだらゴミになる」というのがあったが、読んでもいないのでいうのはなんだが、その人の人生そのものもゴミみたいなものだったんだろうね、といいたい。
…(中略)…
みんなが待っているところへ帰る-そんな気持ちで死を迎えることができたら、もういうことはない。(『ブット・バイ』84p~86p)
そして先生は最後に申されます。
「約束の枚数は尽きた。ふつうなら、グットバイだが、グッドはゴッド、神がおそばにということだろう。ならばわれら仏教徒、別れは《ブット・バイ》-仏おそばにまします。たとえ一人になろうとも、仏はあなたと共にある。今日一日、生きている間は生きている。逢えてよかった。ブット・バイ!(『ブット・バイ』88p)(下線部が今月の言葉)
と、このように締めくくっておられます。阿弥陀さまのはたらきを喜ばせて頂くということは生きそして死んでゆく私たちが孤独や恐れを感じなくてよいという豊かな世界が広がっているのだとのお示しであると思います。
南無阿弥陀仏