(2022年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
今月の言葉は、医師であり、真宗の伝道者(と申しても差し支えないと思います)であられた米沢英雄(1909年~1992年)先生の書かれた「和讃身読記」(東本願寺から出ています
「同朋新聞」の1985年4月1日号に掲載)の文中の言葉だそうです。
私は先生のお名前は、何度かお聞きしたことがありますが、その著作も読んだことがありません(お恥ずかしいことです)。そこで今回は、本願寺出版社刊の『月々のことば』を頼りとして書かせて頂きます。
「和讃身読記」には次のような文章があります
《 仏性が目覚めると今までエゴを先に立てて生きてきて、エゴを満足させるために奔走し てきたが、自分がここにこうして息せしめられているだけですばらしいことだと、他力の はたらきに感動する。実は日常生活においてもこの感動するところに人間があるのだ。
動物には感動がない。空腹になれば動物も食べるが、感動がない。いただきますと合掌 するのは感動の表現である。ろくでもない自分にこうして食物が与えられる。もったいな いという感動、この感動が我々を人間にするのだ。》(下線部が今月の言葉)
先生は「仏性が目覚める」という表現をされています。仏性と申しますのは、生きとし生けるもの(衆生)が本来有している仏と成る可能性ということです。『涅槃経』というお経には「一切衆生悉有仏性(すべての衆生はことごとく仏性を持っている)」と説かれています。
浄土真宗では往生成仏は阿弥陀仏の本願力によるとしますので、如来(阿弥陀仏)が衆生に与えた信心を仏性とします。(参照:浄土真宗辞典)
仏性は阿弥陀さまから私たち一人ひとりに与えられているものです。
そのことに私たち自身が気付かなくても、阿弥陀さまは、私がいのち頂いた時から私に向かってはたらき通しなのであると聞かせて頂いております。
縁あってそのはたらきに気がつかせて頂く、又は、阿弥陀さまの「私のいのちを丸ごと抱え必ず浄土に生まれさせ悟りの仏とする」というはたらきをそのまま受け取らせて頂くことができたことを「仏性が目覚める」と表現されたのだろうと思います。
仏さまのはたらきに目覚めさせられると、自分自身の相(すがた)が見えてくるということでしょう。自分中心にしかものを見てこなかった自分、ここでは、エゴを満足させるために奔走してきた自分の相と申されています。そしてそんな自分に気づかせてくださる阿弥陀さまのはたらき(他力)に感動すると申されています。
私たちは、自分の欲望が満たされるようなことが起きた時に感動します。それを先生は、エゴを満足させると表現してくださいました。そのエゴを満足させての感動ではなく、今ここに自分が在ることが素晴らしいことだと気づかされることが感動であり、それを与えてくださるのが阿弥陀さまのはたらきであることをお示しくださっています。
「当たり前」と思っていたことが当たり前でなく「有難い」ことであった「お陰さまで」あった「不思議なこと」であったと、受け取らせて頂くことそれが感動であるとお教えくださっています。
私は、「いただきます」と合掌して何気なく申しています。そういう習慣になっています。そういう風にするものだと祖母や両親から言われてきました。ですからそれが感動の表現であると申されてもピンとこなかったのですが、改めて、「いただきます」と合掌することの大切さを知らされたことです。
「いただきます」はこれから自分が食べるいのちの対して、いのち頂き自分のいのちにさせて頂くから「いただきます」と言うのだと教えて頂いたことがあります。
一つ一つのことが「有難いことであった」「お陰さまであった」と知らされるのが仏教の教えです。阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏(念仏)」となって私たち一人ひとりにはたらいてくださっています。
お念仏称えさせて頂く中に、自分自身のありようを聞かせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏