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浄土真宗本願寺派 西法寺 大阪府柏原市

〒582-0021 大阪府柏原市国分本町5-6-19

TEL.072-977-3882

浄土真宗とは

今月の法話

2023年2月の法話
  「世の中に 最も度し難いものは 他人ではない この私」
          (2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
 大雪の1月となり、各地から多くの被害のニュースが報じられています。被害にあわれた皆様方にお見舞い申し上げます。
 さて、今月の言葉は、八尾市の光蓮寺のご住職をされていた稲城選恵先生(1917年~2014
年)の言葉です。先生は本願寺派の勧学(真宗教学に精通されている方が拝命される最高位)であられました。
 生前に先生のご法話を何度か聞かせて頂いたことでありました。その都度、先生は「信心を頂くことがこの世に生まれて一番大事なことです」と申されておられたように思います。「信心を頂くことがこの世に生まれた一番大切なことである」中々受け入れがたい言葉です。その当時は、何故先生はそう言い切られるのだろうと思いました。
 
 そこで、「信心」ということについて、改めて考えてみたいと思います。
 浄土真宗で申します「信心」は、私が仏さまを‶信ずる心″ということではありません。阿弥陀さまから、与えられた心、頂いた心ということです。ですから、「他力信心」とか「真実信心」と申されます。

 『浄土真宗辞典』(本願寺出版社刊)には、「真実信心」について
 阿弥陀仏より衆生に与えられた本願力回向の信心。阿弥陀仏から回向された信心であるから大信ともいい、一心ともいう。「信巻」(『教行信証』の信の巻)には、「疑蓋間雑なきがゆえに、これを信楽と名づく。信楽すなわちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり」とあり、信楽ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の名号を領受した心をいう。これは大行である名号のはたらきが衆生にまさしく至り届いたすがたとされる。……
と、示されています。

 そして、親鸞聖人の著された『教行信証』には、信心ということについて、以下のように申されています。(現代語版から引用します)
……「ところで『無量寿経』に「聞」と説かれているのはわたしたち衆生が、仏願の生起本末を聞いて、疑いの心がないのを聞というのである。「信心」というのは如来の本願力より与えられた信心である。……

 このように、浄土真宗の信心は阿弥陀仏より賜る心です。その信心のはたらきで必ずお浄土に生まれさせて頂くことができます。ですから信心は私が作り上げる心ではありません。阿弥陀さまの心です。何故かと申しますと私が凡夫であるからです。それも煩悩成就の凡夫であるからです。
 これまでに何度か書かせて頂きましたように、私たちは、欲多く・いかり・腹立ち・妬みなどの心を持って、死ぬまで生きていかなければならない存在だと親鸞さまは教えてくださいます。ところが中々そのことが受け入れられない私でもあると思います。
 阿弥陀さまが願い(仏願)を起こしてくださったのは、何故かと言えば、煩悩成就の私が今ここに居るからです。煩悩で迷っている(本人はそうは思っていませんが)私のために願いを建てて仕上げて(願成就)くださり、そのお徳を「南無阿弥陀仏」という名号におさめ入れて私にお届けくださっているということです。そのことをそのまま聞かせて頂くことが大切なのです。そのことによって、生死を超えて行く道が開かれるということです。だからこそ、信心を頂くことが本当に大切なことだと稲城先生はお教えくださったのだと思います。
 
 さて、今月の言葉は「世の中に 最も度し難いものは 他人ではない この私」と申されています。「度(ど)す」は「わたす」とも読みます。此岸(娑婆)から彼岸(浄土)にわたす(生まれさせる)という意味になります。
 ここで、稲城先生は、世界中で最も救いがたい、お浄土に生まれさせにくいのが、他人のことではなく自分自身であると申されています。
 先ほど申し上げましたが、自分自身が煩悩まみれの自分であると、仏さまから教えて頂いてもそういう自分のすがたを中々受け入れられないものであります。そして少しでも他人よりはましだと思いたい私であります。
 そういう私のすがたを教えてくださる阿弥陀さまなのです。自分自身のすがたをそのまま受け入れ自覚できない私であることをお示しくださり、だからこそ阿弥陀さまは放っておけずはたらき続けてくださっていることを表してくださった今月の言葉です。
                                    南無阿弥陀仏