(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
春のお彼岸の頃から急に暖かくなりました。門前の桜の花も今が満開です。毎年の事でありますが、桜をはじめ多くの花々が咲き始め私の周りの世界を色付けしてくださり、和らぎを与えてくださいます。
ところが、そんなお花たちにも自分の都合で、自分の好みとその時の感情で、好いとか悪いとか評価をしてしまいます。自分の目につくもの、耳に入るもの、何かにつけて評価をして、善悪、正邪、好き嫌いを判断している私です。その判断の基準が自分自身です。自分で自分のことを見て「これが正しい」と判断するのですが、それが他の人から見たら全く間違っていることも沢山あるのではないかと思います。
しかし、自分の間違いを指摘されても素直に受け入れることは中々難しことではないでしょうか。私などは、表面上は受け入れることは多いのですが、心の中では「自分は間違ってないとか、本当は自分が正しいのに」と思っていることが多いようです。(恥ずかしいことなのですが…)
親鸞聖人は「愚禿悲歎述懐和讃(ぐとくひたんじゅっかいわさん)」の中でご自身のことを次のように申されています。
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎(じゃかつ)のごとくなり
修善も雑毒(ぞうどく)なるゆゑに
虚仮(こけ)の行とぞなづけたる
【現代語訳】悪い本性をおさえることなどできるはずもない。その心はまるで蛇や 蝎のようであり、たとえ善い行いをしても、煩悩の毒がまじっている。 だから、その行いはいつわりの行と呼ばれている。
無慚無愧(むざんむぎ)のこ身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名(みな)なれば
功徳は十方にみちたまふ
【現代語訳】罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、阿弥 陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、その功徳はす べての世界にみちわたっている。
このように親鸞さまはお示しくださいます。そこには、自分自身が如何に間違いを犯しやすいか、重ねやすいか。煩悩にまみれた存在であるかということを表明されています。そんな自分に対して、はたらき続け、支え続けて、私にかかわりはててくださっているのが阿弥陀さまであり、その御名「南無阿弥陀仏」であるとお教えくださいます。自分が煩悩成就の身であることを教えてくださる阿弥陀さま、その教えが「仏法」であります。
さて、今月の言葉は、真宗大谷派の専福寺(東京都)のご住職をなさっておられた二階堂行邦先生(1930~2013)の言葉です。
「仏法の鏡」とは阿弥陀さまの教えということでありましょう。鏡は私たちの姿(外見)を見せるものですが、仏法の鏡は特に内面(心)を見せるものと言ってよいのだと思います。
それは、阿弥陀さまは私たち一人ひとりのことをすべて見通しわかってくださっているとういうことです。「阿弥陀さまが自分のすべてをわかっていてくださる」「私をそのまま受け入れてくださる」と受け取らさせて頂けたら阿弥陀さまの前では、何も身を飾り誤魔化す必要は全くないのです。素っ裸の自分でいられる。今のままで安心していられる。そのことを表してくださったのが今月の言葉ではないでしょうか。
念仏を称え何時も阿弥陀さまが一緒に居てくださることを確認させて頂きましょう。
皆さま、お念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏