(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」6月のことば)
今月の法語は、小山法城(1887~1973)和上の著書『我等の歩み』(興教書院)に収められたエッセイの題名からとられたものということです。小山和上は西本願寺の教学の最高位である勧学に就かれ専門的研究はもとより真宗伝道にも力を注がれた方でありました。
そのエッセイは、阿弥陀如来を母に、衆生を子になぞらえて書かれた文章で、母(阿弥陀如来)と子(衆生)のいのちは一体であり、衆生は如来のいのちによって生かされているとも示されているそうです。そのような如来のはたらきが「信」であることを示されたのが今月の言葉であると思います。この「信」は阿弥陀如来から与えられた「信心」のことです。
「信心」ということについて、行信教校の校長で、勧学であられた梯實圓(1927~2014)和上は、その著『教行信証の宗教構造』(法蔵館刊)に、
【親鸞聖人は信心を「真実心」の意味とされている。「信文類」の字訓釈に「信はすなわちこれ真なり実なり」と言われたものがそれである。元々信という漢字は真(まこと)という意味であり、真には実という意味があるところから、信は真実といわれたのである。…(略)…ともあれ親鸞聖人が、信をつねに真実と関連させ、如来の智慧という真実に裏付けされた信でなければ如実の信心ではないといわれるのも元来信は真であったからである。】
と、お示しなり、信心は真実心の意味である申されています。
真実のおはたらきということは、嘘いつわりが微塵もないということです。そして「生命(いのち)」とは、『広辞苑』には ①生物の生きていく原動力。②寿命。③一生。生涯。④もっとも大切なもの。真髄。と、示されています。
ですから、ここで「如来の生命」と申されることは、阿弥陀さまのもっておられるものすべてをかけてのはたらきということになるのだと頂きます。
阿弥陀さまは、ご自身のありだけすべてをかけて私たち一人ひとりに向かって、「あなたのことを絶対捨てない・本当の安心を与えたい」と、はたらいてくださっていることを疑うことなくそのまま受け取らせて頂くそれが私に与えられた信心となるのではないでしょうか。
さて、西本願寺から出版されております『拝読浄土真宗のみ教え』に「聞くことは信心なり」と題された一文があります。
【母に抱かれて笑う幼子は、母に慈しみを信じて疑うことがない。慈愛に満ちた声を聞き、ただその胸に身をまかせ、大いなる安心の中にある。
親鸞聖人は仰せになる。
聞其名号というは 本願の名号をきくとのたまえるなり きくというは 本願をききて疑 うこころなきを聞というなり またきくというは 信心をあらわす御のりなり
南無阿弥陀仏は、「必ず救う、われにまかせよ」との慈愛に満ちた如来のよび声。このよび声をそのまま聞いて疑うことがない、それを信心という。
自分の見方をより処とし、自分勝手な思いで聞くのであれば、如来の慈愛のよび声をそのままに聞くことにはならない。
母の慈愛の思いが、幼子の安心となるように、如来のよび声が、そのまま私たちの信心となる。】
ところが、阿弥陀さまのはたらきをそのまま聞かせて頂く、自分へのはたらきとして聞かせて頂くことは難しいものだとも思います。それと申しますのも、ネットで小山和上のことを検索しておりましたら、以下のようなお話が出ていました。
小山和上があるお寺に一週間お説教にいかれた時のことです。前席の法話が終わり中休みの時に、そのお寺の婦人会の会長さんが、和上にお茶を出されて下がられてしばらくしたら、その会長さんに「ババァ・ババァ、もう一杯くれ」と言われたそうです。会長さんは「ババァとは何事!」と腹を立てて聞こえなかったふりをして無視しよう思っていたら「梅干しババァ」とまた和上の呼ぶ声が聞こえて、カンカンに怒ってしまわれたそうです。そして後席のお話しが始まって、開口一番、ふくれっ面の会長さんに「ババァといわれてそんなに腹が立ったか。それは自分の事じゃと思ったからじゃ。先ほどから『罪悪深重の悪凡夫』と言っていた時にはニコニコして聞いていたぞ。それは自分事と思ってないからや。うつけ者」と申されたそうです。
「ホンマにそうやな」と思いましたが、小山和上さんという方は、腹の座った、ある意味自分はどう思われても、阿弥陀さまの真実を伝えることに全力投球されていた方なのではないかと思いました。
「私のために法が説かれてある」ということを忘れてばかりの自分であります。「親鸞聖人の出現は私一人のためであった」(今年のカレンダーの表紙のことば)というお味わいを改めて大切にしたいものだと思ったことです。
南無阿弥陀仏