(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
今月の法語は、利井明弘(1936~2003)先生の言葉です。利井先生は高槻市にあります常見寺のご住職で、同寺に開校されている「行信教校(ぎょうしんきょうこう)」という仏教(浄土真宗)の教学を専門的に学ぶ学校の校長をされていた方です。
常見寺様の寺報『常見寺だより』に掲載された先生のご法話の一節が今月の法語です。
ところで、私は、お得度を受けて47年余りになります。その得度習礼の時やその当時に先生や友人に教えて頂いた勤行(お勤め)の仕方が基本的には正しいのだ思っています。そして、何時でも、これで間違いないと思ってお勤めをするのですが、その日の体調で、音が下がったり、節が間違っていたりすることが何度もあるようです。自分では間違いないと思っていても坊守や娘にその間違いを指摘されて、自分の間違いに気付かされることが多くあります。
例えば、お正信偈の最初の音(出音)は、ハ長調のレの音です。自分では、レの音だと思っていても実際には違っていることがよくあるようです。それは、ハ長調のレがどんな音か実際にわかっている人が聴けば、正しい音かそうでないかすぐにわかるのですが、正しい音がどの音なのか自分にはわかっていないとうことです。(自分が正しい音階をもっていないということでしょう)正しい音を教えられて自分の間違っている姿に気付かされる。今月の言葉は、そのようなことを表してくださっているのだと思います。
今月の法語で申されている「正しいものに遇う」ということは「仏法に遇う」ということです。
禅宗(曹洞宗)の開祖道元禅師さんは「仏道をならうというは自己をならうなり」という言葉(『正法眼蔵』)を残しておられます。
仏に成る道をならうということは、自分自身の本当のすがたを教えられるということであります。それは、私なりに受け取りますと、自分自身が間違いだらけ(煩悩成就)の身であったことに気付かされるということです。それは、仏法(仏教)を聞かせて頂くことで開かれる世界だと思います。仏法によって、自分がいかに多くの煩悩をかかえて自分中心に生きているかを知らせて頂くのであるということをお示しくださる今月の法語です。
では「仏法」とは何でしょうか。
『岩波仏教辞典』には「仏とは仏陀のことで、法とは真理・教えのことである。合わせて、仏陀が発見した真理、仏陀が説いた教えという意味になる。仏教と同じ意味で、仏陀の教え、あるいは仏陀になる教えをも意味する」と、記されてあります。
親鸞聖人はお正信偈に「釈迦如来がこの世にお出ましになったのはただ、阿弥陀仏の本願海の教えを説くためであった」とお示しくださいます。
そうしますと、私が聞かせて頂くのは、「阿弥陀仏の本願のおはたらき」ということになります。そして、ご本願のはたらきは「南無阿弥陀仏」という名号(阿弥陀さまの名前)となって私に届けられています。阿弥陀仏そのものが「名号(南無阿弥陀仏)」となって私にはたらきかけてくださっているのです。
多くの先達の方々が教えてくださっていることですが、私たちが聞かせて頂くのは「名号のおいわれ」です。何故、阿弥陀仏は「名号(南無阿弥陀仏)」となって、はたらいてくださるのかということです。それは私たちが簡単に称えることが出来るからです。
多くの苦しみ悩みの因(煩悩)を持って生きている私たち一人ひとりが存在しているから阿弥陀仏(法蔵菩薩)の願が建てられました。そして、その一人ひとりに本当の安心を与えるために阿弥陀仏が「南無阿弥陀仏」という声の仏さまとなってはたらき続けてくださっているのです。
私の口から南無阿弥陀仏とお念仏させて頂くとき阿弥陀さまと共にある自分だと受け取れる世界をもたせて頂けるのです。
いくら念仏しても煩悩がなくなるわけではありませんが、そんな私のことを放っておけない阿弥陀さまです。ですからいつでもお念仏させて頂くことが出来ます。
自ら念仏させて頂くことで自分自身の姿を問えることのすばらしさをお示しくださった今月の法語と受け取らさせていただきます。
南無阿弥陀仏