(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」8月のことば)
今月の法語は、京都の大谷大学で教授や学長を務められた曽我量深(1875~1971)先生の言葉です。私は曽我先生のお名前だけはよく聞かせて頂いていたことですが、その著書を読んだこともご講演をきかせていただいたこともありません。
そこで、ネットで検索しましたら『曽我量深における「法蔵菩薩」感得の意義―曽我量深没後50年』≪真宗大谷派教学研究所所員 武田未来雄氏による『中外日報』(2020年6月30日)への寄稿文≫が掲載されていました。その論文の一部を紹介させて頂き、今月の法語を味わいたいと思います。
この論文では、曽我量深先生が明らかにしようとされたのは「自己自身を通して如来による救済の実在を証明することであった」と示されます。そして筆者は、曽我先生が「如来を遠く西方十万億仏土に在すものとして、憧憬や祈願の対象として見るのではなく、如来の救済が現在の自己の上の事実となることを考究したのである」とも示されるのです。
そして曽我先生の示された「真宗教義の三大綱目」というものについて以下のように書かれています。
「第1は「我は我なり」で、それは人間はどこまでも迷いの存在であり、如来に成れないことの自覚を表す。第2は「如来は我なり」で、それは自己に迷いの自覚を生じさせる真主観として如来が我となることを表す。そして第3は「(されど)我は如来に非ず」で、それは「我は如来である」との邪執を破邪することを表す。そして再び第1の「我は我なり」にもどり、この三綱目は循環して尽きる所がないと言う。
つまり、「如来は我なり」と聞くと、凡夫が如来に成ったかのようにごう慢に聞こえたり、あるいはそう思ってしまう自己が居る。そのために第3である「我は我にして、如来に非ず」とおさえられる。そこで、第1の「我は(如来ではなく)我なり」との自覚になるのだが、この自覚には二重の意味がある。
すなわち、単に自分が凡夫であると自覚するのみではなく、如来が我となって生じる自覚なのである。このようにしてこの三大綱目は永久に繰りかえし、深まっていく歩みとなるのである。」
引用が非常に長くなりましたが、自分自身の上に確実に自覚される阿弥陀如来のはたらきを自己の中で繰り返し繰り返し自覚を深めていくことの大切さをお示しくださっているのだろうと思います。
「われもたすかり人もたすかる」その言葉をそのまま使うことはたやすいことのように思いますが、上の文章を読ませて頂きますと、私自身が本心からそう思えるのですか?と、問われているように思えます。
何故なら私自身は罪悪深重の凡夫であるからです。そういう自分、救われようのない自分のことを、救いたいとはたらいてくださるのが阿弥陀如来なのです。その阿弥陀如来のはたらきはすべてのいのちあるものにかけられています。ですから、私がたすかるという思いに包まれるとき、他の人々もたすかるという思いを持たせて頂くことができます。多くのいのちが阿弥陀の救いの中にあることを感じ取りたいものです。阿弥陀如来のはたらきは、南無阿弥陀仏という言葉(声)となって私に届けられています。南無阿弥陀仏(念仏)を称え、多くのいのちが阿弥陀さまのはたらきの中にあることを感じ取りたいものです。
今月の法語は、ある意味、仏教はすべてのいのちを大切にする教えであることを表してくださっているのかもしれません。
南無阿弥陀仏