(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
今月の法語は、京都女子大学や龍谷大学の教授であられた石田慶和(1928~2015)先生の言葉です。先生は哲学者であり宗教学者でもあられ、親鸞思想の宗教哲学的解明を研究された方であったと聞かせて頂いています。
石田先生の「非僧非俗」と題した論文(『龍谷大学論集』409号所収 昭和51年)があります。その文章の中に
《すなわち、「非僧非俗」とは、比叡山を下りて法然門下に参じ、念仏の教えを「うけたま はり定めた」親鸞が、六年にわたる研鑽の後に、自らの歩む道として選び取った生き方に外 ならなかったのである》
《身に一行をも備え得ない末世の悪人たる自己に対する深い慚愧と、その自己が同時にその まま如来廻向の真実の教法にあい得たことの大きな喜びとが語られている》
と、お示しになられています。
「非僧非俗(ひそうひぞく)」ということについて『浄土真宗辞典』(西本願寺刊)には
僧でもなく俗人でもないという、親鸞が示した自身の立場のこと。…(中略)…非僧とは、 承元(1207年)の法難によって流罪に処せられた時に僧籍を剥奪されたことから「僧尼令」 に基づいた国家公認の僧侶ではなくなったことをいう。非俗とは、種々に解釈されるが、妻 帯をしていても、法衣をつけて世俗の権勢にこびず、名利をいたむ心をもって念仏者として 生きるのだから単なる俗人でもないこととされる…(以下略)…
と、示されています。
このように親鸞聖人ご自身が非僧非俗と宣言され、浄土真宗に生きる者の姿勢をお示しくださったのだと思います。
今月の法語には「“まこと”のひとかけらもない私」と申されています。
“まこと”とは『広辞苑』には、
① 事実の通りであること。うそでないこと。真実。ほんとう。
② 偽り飾らぬ情。人に対して親切にして欺かぬこと。誠意。
と、示されてあります。
自分には“まこと”という心はないと言い切られますと「ちょっと待ってください。そんなことはありません。自分なりに一生懸命してきたこともあります。本当に相手のことを思って自分のことなど考えずに向き合って来たこともありました。それなのに“まこと”のひとかけらもないと言われると腹がってしまいます。」という声が聞こえそうです。
それは「少しでも自分を認めてほしい」という気持ちの表れであると思いますし、他の人々のためにという思い(心)が、大切であることも事実だと思います。
しかしながら、私達人間の“まこと”は、時と場合によって、その時々の条件によってコロコロ変わるものです。自分の家族、身体、経済的状況、環境状況等々で変わってしまうことも多いのではないでしょうか。
そういう私たちであるからこそ、絶対に変わることなく私たち一人ひとりを思い続けてはたらき続けてくださる方が阿弥陀如来という仏さまなのです。
その阿弥陀さまが「南無阿弥陀仏」となって私の口から出てくださる。その念仏の声は「あなたのことを絶対に見捨てません。何時でも何処でもあなたを支え続けます」とよび続けてくださっていると頂くのです。
ですから「仏さまから差し向けられた“まこと”」なのです。
無慚無愧のこの身にて まことのこころはなけれども
弥陀回向の御名なれば 功徳は十方にみちたまう
(親鸞聖人ご和讃)
(現代語訳)
罪を恥じる心がないこの身には、まことの心などないけれども、
阿弥陀仏があらゆるものに回向してくださる名号であるから、
その功徳はすべての世界にみちわたっている
南無阿弥陀仏