(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」11月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派僧侶で、京都の大谷大学の教授をされていた 金子大榮(かねこ だいえい・1881年~ 1976年)先生の言葉です。
私は、金子先生のお名前は以前からよく知っておりますが、先生のことはよく知らないことです。そこで、ウキペディアを見ますと、以下のように示されてありました。
金子 大榮(かねこ だいえい、1881年5月3日 - 1976年10月20日)は、日本の明治~昭 和期に活躍した真宗大谷派僧侶、仏教思想家。前近代における仏教・浄土真宗の伝統的な 教学・信仰を、広範な学識と深い自己省察にもとづく信仰とによって受け止め直し、近代 思想界・信仰界に開放した。
このようなお示しをいただく時、真宗大谷派内だけでなく多くの方々をご教化されていかれた先生の存在の大きさを思わせることです。
さて今月の言葉は、私たちが生まれてきたこと生きていることの意味と死ぬことの意味を明らかにしてくださるのが、南無阿弥陀仏のはたらきであることをお示しくださった言葉であると思います。
「生の依りどころ」ということは、私を生かしめているはたらきということであろうと思います。私を支え生かしめるということは、私に生きていく意味を与えるものです。そして、生きていくことができるのは生まれさせて頂いたからです。つまり、生きていく意味を見出せることで生まれてきた意味が分かるということではないかと思います。
今月の言葉では、自分を支えてくださるはたらきをされるのが「南無阿弥陀仏」であるということを申されています。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来のみ名ですが、阿弥陀さまそのものであると親鸞さまは教えてくださいます。親鸞さまは『教行信証行巻』に説かれています。
「こういうわけで、ただみ名を称えるところに、衆生のすべての無明を破り、衆生の
すべての願いを満たしてくださるのである。称名はすなわちもっともすぐれた正しい行
業である。正しい行業はすなわち念仏である。念仏はすなわち南無阿弥陀仏である。……」
(『教行信証現代語版』<本願寺刊>より)
そして、生は必ず死を迎えます。死によってすべてが終わるということであれば、その人のはたらきはそこで終わってしまうのです。人間として生きて来た「はたらき」は人々の中に残るかもしれませんが、おそらくどんどん忘れ去られていくことでしょう。それよりも、私たちは、死んだら終りではなく死をこえていく安心できる世界をどこかで求めているような気がしてなりません。
今月の言葉の「死の帰するところ」とは死をこえていきつく場所ということでしょう。私たちは、他の人々の死の姿を見させていただくことはあっても自らの死についてはよくわかりません。そのよくわからない世界に不安な気持ちで、あるいは恐怖の気持ちで迎えるのが私たちではないでしょうか。
そんな不安から私たちを解放させるために建てられたのが極楽浄土という阿弥陀仏の世界です。阿弥陀さまは私たちを必ず極楽浄土に生れさせると誓われています。そのために、南無阿弥陀仏のお念仏となって私の口から出てくださっているのです。私たちは、阿弥陀さまが「必ずあなたを浄土に生れさせる」とのはたらきを疑うことなくそのまま受け入れ、そのはたらきにおまかせすることが大切なことです。
親鸞さまの正像末和讃の第一には
弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて 無上覚をばさとるなり
と、詠まれています。
この世の命終わっていく者が、阿弥陀さまのはたらきをそのまま受け入れ、阿弥陀さまのおはたらきで、お浄土に往生させて頂き仏と成らせて頂くのです。そして今度は仏のはたらきをさせて頂くということです。
つまらんと思っていた私のいのち、本当に心底から大切にしてくださる方それが阿弥陀さまだったのです。
皆さまお念仏申しましょう
南無阿弥陀仏