(2023年 真宗教団連合「法語カレンダー」12月のことば)
12月の法語は、浄土真宗本願寺派の教学の最高位の勧学であられた梯實圓(かけはし じつえん 1927~2014)先生の言葉です。先生の著書『花と詩と念仏』(1995年 永田文昌堂刊)の中、「花と念仏」という1992年6月1日にカナダのバンクーバーで開催された第9回世界仏教婦人会大会での基調講演の原稿文中に出されている文章です。
ここで先生は、花について以下のように申されます。
【 花を、きれいだなあ、と鑑賞することはありましても、なかなか花の「いのち」にまで触れるということは難しいことでございます。
…………(略)………
この花の一輪一輪が、二度と再び咲くことのできない花を、力一杯に開かせている、しかもその一輪の花に、天地の生気が凝集しているような、そんな花の「いのち」が見えてこなければならないのじゃないでしょうか。この一輪をあらしめるために全宇宙は精魂をかたむけているのだというような領域もあるわけでございます。】
と、世間の価値観ではなく、仏教徒として、目の前にある花の見かたをお示しくださいます。
仏教は縁起の教えです。物事が起こるということにはそれが起こるための原因と条件が揃っているからであると教えていくださっています。
一つの花が咲くということは、種という因があり、土や水や光という条件(縁)が整い、種から芽が出て茎が伸び、蕾が膨らみ、花が咲く(果)ということです。この因縁果(いんねんか)が、揃って初めて花が咲くのです。しかし、因の種は、前の花から採れたものです。その種の始まりを遡って訪ねていくと、どこまでも果てしなく続いていきそうです。
そのことを、先生は「この一輪をあらしめるために全宇宙は精魂をかたむけているのだというような領域もあるわけでございます」と表現くださったのだと思います。それは、花のことだけではなく多くの物事を見るときに、そして私たちのいのちを考えるときに非常に大切なことではないかと思います。一つ一つのいのちが全宇宙の精魂かたむけたはたらきの上に生み出された、とても重い掛替えのない大切ないのちを頂いているということです。
そう考えますと、いのちを奪い合うことの愚かさが見えてきます。どう考えても戦争に正義はないのだと思います。
さて今月の言葉は、「花と念仏」の以下の一文に出されています。
【 ところで救われた人といえば、浄土の菩薩だけではなく、今ここで本願を信じて念仏している私どももはいります。
……(そして、曇鸞大師の言葉を引かれてのち)……
私どもは阿弥陀如来さまを共通のみ親と仰ぐ兄弟であり、姉妹であって、お互いにみ仏の眷属(=仏・菩薩につき従う者)の一人として、如来さまの浄土荘厳の聖なるみわざに参加しているものであるといわれているのです。ですから私どもも一人一人がお浄土を飾っていく一輪一輪の花になるのだと味あわせて頂きましょう 】(下線部が今月の言葉)
と、このように申されています。
阿弥陀さまの「必ずあなたを浄土に生まれさせる。私にまかせよ。私は南無阿弥陀仏のお念仏となってあなたにはたらき続けます。」というはたらきをそのまま頂きお念仏を喜ばせていただく者はお浄土を飾っていく花に成らせて頂くということです。
しかしながら、現実の私たちは煩悩具足の身であり、煩悩に振り回されて生きていることには間違いありません。そんな私であるからこそ、私のことを捨てておけず、おはたらきくださる阿弥陀さまです。
その上、今の私を、浄土をお飾りする花と咲かせてくださるのです。
お念仏申し、その阿弥陀さまのおはたらきを忘れないようにしたいものです。
皆さまお念仏申しましょう
南無阿弥陀仏