(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」表紙と1月のことば)
あけましておめでとうございます。
今年も真宗教団連合から出されていますカレンダーの「毎月の法語」をご縁に月々の法話を書かせて頂きたいと思います。
さて、阿弥陀仏の光明と名号ということですが、光明について、親鸞聖人の著されました
『正信念仏偈』に十二光が説かれています
「普放無量無辺光 無碍無対光炎王 清浄歓喜智慧光
不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照」
【あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る】(『浄土真宗聖典
註釈版』より)
「本願を成就された仏は無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光とたたえられる光明を放って、広くすべての国々を照らし、すべての衆生はその光明に照らされる」(『顕浄土真実教行証文類
現代語版』より)
『仏説無量寿経』には、阿弥陀仏の光明の徳を12種の光に分けて称賛されています。そして七高僧の一人である曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』を著わされ、十二光のひとつひとつを阿弥陀仏の徳にあてはめて讃嘆されています。親鸞聖人は、曇鸞様のお示しを受けて『和讃』を詠まれ阿弥陀仏の光明を讃えられています。
この十二光のお示しにより、阿弥陀仏の光明のはたらきが明らかにされると思います。
阿弥陀さまの放たれる光は、
・量ることのできない光(①無量光)、
・際限のない光(②無辺光)、
・何物にもさえぎられることのない光(③無礙光)、
・くらべるもののない光(④無対光)、
・最高の輝きをもつ光(⑤炎王光)、
・衆生のむさぼりを除くきよらかな光(⑥清浄光)、
・衆生のいかりを除きよろこびを与える光(⑦歓喜光)、
・衆生のまどいを除き智慧を与える光(⑧智慧光)、
・常に照らす光(⑨不断光)、
・思いはかることができない光(⑩難思光)、
・説き尽くすことができず言葉も及ばない光(⑪無称光)、
・日月にこえすぐれた光(⑫超日月光)
このように、阿弥陀さまは私に本当の安心を与えるために、私たち一人一人にはたらき続けかかわりはててくださっているということです。
そして、名号については、『正信念仏偈』に「本願名号正定業 至心信楽願為因【本願の名号は正定の業なり、至心信楽の願を因とす】」、現代語版には「本願成就の名号は衆生が間違いなく往生するための行であり、至心信楽の願(第十八願)に誓われている信を往生の正因とする」と記されてあります。
本願成就の名号とは「南無阿弥陀仏」のことです。南無阿弥陀仏は私が口で称えるとお念仏ということになりますが、私が称えられるように、阿弥陀さまから名号を頂いているのです。阿弥陀さまが「我が名(南無阿弥陀仏)を称えてくれよ」と、私のことを呼び続けてくださりいつでもどこでも私を照らし続けてくださっている。その「おはたらき」をそのまま素直に受け入れるとき、心安らぐ音楽を聞かせて頂いているような安心感を与えられることを表してくださった表紙の言葉ではないかと思います。
その阿弥陀さまの光に、今、包まれて、自分のいのちの帰っていくべき世界を知らされると申されているのが1月の法語です。
帰っていくべき世界とは、極楽浄土ということでしょう。阿弥陀さまの国(極楽浄土)に私のいのちが帰っていくということは、私のいのちの故郷は、お浄土であるということなのでしょう。
現実的なことで申せば母親のお腹の中だということになるかと思いますが、そうではなく、私のいのちそのものが、絶対に崩れることのない阿弥陀さまのはたらきに包まれているという受け取りをもつ中で本当の安心を頂くということではないかと思います。
いつか必ず終わっていく我が命を悲しく寂しいものと受け取るのではなく、阿弥陀さまのはたらきによって安心の世界へと帰っていくことができる尊いいのちと思えることが大切なのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏