(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
今月の法語は、大谷派の僧侶で大谷大学の名誉教授であられた金子大栄(1881~1976)先生の言葉で、東本願寺出版から出されています『浄土真宗とは何か―『教行信証』のこころ―』に掲載された言葉だそうです。
さて、「念仏」ということについて、『浄土真宗辞典』(本願寺刊)には、
「仏を念ずること。真如を念ずる実相の念仏、仏の相好を心に思い観る観想の念仏、仏像を観ずる観像の念仏、仏の名号を称える称名念仏などがある。聖道門では、実相念仏を最勝とし称名念仏を最劣とみる。これに対して、浄土門では、称名念仏を極善最上の法とする。法然は善導の本願観を継承し、称名念仏は阿弥陀仏が第十八願において往生行として選び取った行であるとした。…(略)… 親鸞は法然の説く称名念仏が真実信心にそなわった他力の念仏であり、本願力回向の行であるとした。『正像末和讃』には「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」とある」
そして、梯實圓先生の『親鸞聖人の信心と念仏』(自照社出版刊)という書物には、
「親鸞聖人が恩師法然聖人より伝承されました念仏は、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏のみ名を称える称名念仏です。それを法然聖人は「本願の念仏」、さらに詳しく「選択本願の念仏」であると言われました。
本願とは、生きとし生けるすべての者にかけられている願いのことです。さまざまな悩みを持って生きているすべての者を、善悪、賢愚のへだてなく救い取って、安らかなさとりの領域である浄土に往生させようとして発(おこ)されたこの誓願は、四十八ヵ条にのぼりますから「四十八願」と呼んでおります。その十八番目に誓われている願には、「お願いだから念仏を申して、私の国に生れて来てくれよ」と願われています。法然聖人は、この第十八願を「念仏往生の願」と名づけ、「四十八願の王であると」言われています。そこには、一切の衆生を平等に救う道として、一切の自力の行を選び捨てて、称名念仏だけを必ず往生できる絶対に確実な行(おこない)として選び取り、選び定められていますので、とくに「選択本願」と呼ばれたのでした」
引用が大変長くなりましたが、私たちの申している「念仏」は阿弥陀さまが私たち一人一人のために選び取ってくださったものであるということです。煩悩で一杯の間違いだらけの私が選んだのではなく、阿弥陀さまが、この私に、生も死も通して安心を与えるために選び取ってくださったのが称名念仏であるということです。ですから、浄土真宗では称名念仏が極善最上の法とされるのです。
今月の言葉は、阿弥陀仏がお念仏となって私にはたらいてくださっていることを表されたのではないかと思います。お念仏申し上げることができるのは、阿弥陀仏が私にはたらいてくださっているからです。
これは親と子の関係に似たようなものではないかと思います。親は子供を授かって初めて親となります。子供も親に育てられ「お父さん・お母さん」と親を呼ぶようになります。お父さん・お母さんと呼べるのはそこに親がいるからです。その呼び声が出ることによって、親を認識し、自分が安心するということになるのではないでしょうか。(実際には色々な場面が想定されますが)
私のことを阿弥陀さまが包み込み「あなたのことは放ってはおけない何時でも一緒にいますよ」と呼び続けていてくださっているのです。そのはたらきを自分の称えるお念仏の中に聞かせて頂くのではないでしょうか。
ところが、私たちは、そのような阿弥陀さまのはたらきを聞かせて頂き「ありがとうございます」とお念仏申し上げるのですが、本当に心底から有り難いと思っているのかどうか自分でも疑問に思います。悲しいことですが勿体ないことですが、それでいいのかと思うことがあります。
しかし、煩悩成就の凡夫です。念仏申すはずのなかった自分です。ご縁を頂いて形だけでもお念仏申すようにならせて頂きました。大切なことはご縁がなければ、念仏申すはずのなかった自分のことを、見捨てることなく、安心を与えようとはたらき続けてくださっている阿弥陀さまがいてくださる。お念仏となって私の口から出てくださる。私の気持ちがどうであろうとも、私のことを大切に思い続け、はたらき続けてくださる阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)なのです。
念仏は阿弥陀さまそのものですから、念仏をはなれては、仏も私もないということになるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏