(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」3月のことば)
今月の法語は、本願寺派の勧学で本願寺派の教学研究所所長や行信教校の校長をつとめておられた梯實圓先生(1927~2014)の言葉です。(昨年の12月の法語も梯先生の言葉でした)
親鸞さまは、「南無阿弥陀仏」ということについて、「南無ということは帰命であり発願回向(ほつがんえこう)の意味である。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行(即是其行)である」という善導大師のお示しを受けて、『教行信証』の行の巻に「六字釈」をお示しくださっています。『顕浄土真実教行証文類(現代語版)』を基にして、考えていきたいと思います。
「帰」ということについて、
「帰」は至(いた)るという意味であり、帰説(きえつ)という熟語の意味で「よりたのむなり」ということです。この場合、説の字は悦(えつ)と読みます。
また、帰説(きさい)という熟語の意味で「よりかかるなり」ということです。この場合、説の字は税(さい)と読みます。説の字は、悦と税の二つの読み方がありますが、告げる、述べると、阿弥陀仏がその思召しを述べられるということです。
私なりにまとめてみますと、「帰」は阿弥陀さまが私に向かって、
「阿弥陀に向かって来いよ、頼りにして、寄りかかってくれよ」という阿弥陀の思し召しを、告げられ述べられていることお示しくださっているのだと思います。
「命」ということについて、
「命」の字は、「業・招引・使・教・道・信・計・召なり」と示されています。業は、阿弥陀さまの本願のはたらきということです。そして、阿弥陀さまが私を招き引き、阿弥陀さまが私を如来の使者とし、阿弥陀さまが私に教え知らせるの意味です。道とは、本願のはたらきの大いなる道という意味であり、信は、阿弥陀さまの救いのまことを私に知らせてくださるという音信の意味です。計は、阿弥陀さまが、私のことを計らわれるという意味であり、召は、阿弥陀さまが私を召してくださるという意味です。
それは、阿弥陀さまが、私の姿を見通し、私のことを思い続けて、私に向かってはたらき続けてくださっていることを表しているのだと思います。
このようなわけで、「帰命」とは、阿弥陀さまが私たち一人ひとりのことを心底から大切に思いはたらき続けてくださっていることから、「帰命」とは、私を招き、喚び続けておられる如来の本願の勅命なのです。
「発願回向」とは、阿弥陀如来が法蔵菩薩の時に願(四十八願)を発願されて、衆生が浄土に往生するための行を与えてくださる大いなる慈悲の心です。
そして、「即是其行」とは、衆生を救うために選び取られた本願の行という意味です。
このように「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまご自身が、私たち一人一人を救うため(悟りの仏とするため)に選び取られたものです。私たちが南無阿弥陀仏を称えることができるのは、阿弥陀さまが願いをたて、「阿弥陀に帰せよ、たよりにせよ、必ず救う」と「南無阿弥陀仏」と成ってはたらいてくださっているからなのです。
さて、今月の法語は、『蓮如上人御一代記聞書』の第85条に
「おなじく仰せられ候ふ。凡夫往生、ただたのむ一念にて仏に成らぬことあらば、いかなる御誓言をも仰せらるべき。証拠は南無阿弥陀仏なり。十方の諸仏、証人にて候ふ」
という条文があります。その現代語訳は以下のようになります。
《実如上人は、「凡夫の往生は、ただ阿弥陀如来におまかせする信心一つでたしかに定まる。もし信心一つで仏になれないというのなら、わたしはどのような誓いをたててもよい。このことの証明は、南無阿弥陀仏の六字の名号である。すべての世界の仏がたがその証人である」と仰せになりました。》【『蓮如上人御一代記聞書』(現代語版)】
この条文に基づいて、お示しくださったのが今月の法語だということです。
私たちが「南無阿弥陀仏」と称えているということは、今ここに阿弥陀さまがはたらいてくださってあると受け止めさせていただきます。私のことを絶対に捨てることなく必ず仏のさとりを開かせると、はたらいてくださっている阿弥陀さまが、私の口からこぼれる「南無阿弥陀仏」となって現れ出てくださっているということです。
ですから、南無阿弥陀仏は、私の救われる「しるし」であり「証し」であると梯先生はお示しくださっているのだと思います。
大切なことは、私たちがその如来さまのおはたらきを素直に受とらさせていただき、お念仏させていただくことだと思います。
如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて 大悲心をば成就せり (親鸞聖人 正像末和讃)
【現代語訳】
阿弥陀仏が願いをおこされたお心を尋ねてみると、苦しみ悩むあらゆるものを見捨てることができず、何よりも回向を第一として大いなる慈悲の心を成就されたのである
南無阿弥陀仏