(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」4月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派顕真寺の住職をされ大谷派総会所や同朋会館の教導をされておられた近田昭夫師(1931~2018)の著された『仏さまはどこにおられますか?』(東本願寺出版部刊)の中の言葉だそうです。
今年の『月々のことば』(本願寺出版社刊)に近田先生の文章が紹介されています。
《如来したまう本願は、相手の身になって、その身の事実を引き受けて立ち上がる力となろ うという、未曽有の救済プランだと言ったら言い過ぎでしょうか。大悲の仏心にめざまされ たら、「面(つら)ァ洗って出直しだ」と、身の事実から歩み立てます。弱い者に弱いまま 立てる心がおこります。まことに浄土真宗とは聞法がいのちであったと知らされるではあり ませんか。》(下線部が今月の法語)
阿弥陀如来がご本願をたてられたのは、私の身そのものをすべて引き受けるためであったからであること、そして阿弥陀さまの大悲の心を聞かせていただき、阿弥陀さまの心をそのままに受け入れることで、自分が立ち上がる力をいただくことができると示されています。
それは仏法を聞かせていただく私自身に、安心し自分として生き死んでいけるという世界が恵まれてあるということでしょうか? そして、それが知らされるのが聞法によるということを示してくださっているのだと思います。
蓮如上人の語録であります『蓮如上人御一代記聞書(193)』には、
《「きわめて堅いものは石である。きわめてやわらかいものは水である。そのきわめてやわ らかい水が堅い石に穴をあけるのである。心の奥底まで徹すれば、どうして仏のさとりを成 就しないことがあろうか」という古い言葉がある。信心を得ていないものであっても、真剣 にみ教えを聴聞すれば、仏のお慈悲によって、信心を得ることができるのである。ただ仏法 は聴聞するということに尽きるのである。と蓮如上人は仰せになりました。》
(蓮如上人御一代記聞書 現代語版より)
「仏法は聴聞にきわまる」
仏法は聞かせて頂くことが第一であると、蓮如さまは申されています。そのことを示してくださったのが今月の言葉だと思います。
浄土真宗においては、その教えを聞くことが一番大切なことだとのお示しです。
ところで、この法を聞くというのは、何を聞かせて頂くのでしょうか。
親鸞さまは、『教行信証』(信の巻)に
「聞と言うは、衆生仏願の生起本末をききて疑心有ることなし。これを聞と言うなり」
《「無量寿経」に「聞」と説かれているのは、私たち衆生が、仏願の生起本末(仏が衆生救 済の願をおこされた由来と、その願を成就して現に我々を救済しつつあること)を聞いて、 疑いの心がないのを聞というのである》(教行信証現代語版より)
と、申されています。
私たちは、み教えを聞いて感じて初めて阿弥陀さまに触れさせて頂くのです。聞かせて頂くことで自分のことが知らされ、ずっと以前から阿弥陀さまは私のことを思い通しであったと教えて頂きます。
ところが、私の日常は、つねに阿弥陀さまを思いお念仏を称え生活しているかというと、ほとんど忘れているというのが本当のところです。お恥ずかしいことですがそれが私の姿だと思います。聞法を重ね信心をいただいたなら煩悩にさいなまれることが少なくなるというようなことを言われる方もおられますが、私自身の姿を見ると、とてもそうは思えないのです。(それは、あなたが信心を頂いていないからだと言われますとしかたないのですが…)
しかし、阿弥陀さまはそんなあなたが捨てられないのだと、はたらいてくださっているのだと思います。煩悩をもったままの私をそのまま包み込んで離さないよと、はたらいてくださる阿弥陀さまです。
だからこそ、縁あるごとに阿弥陀さまのおはたらきを聞かせて頂くことが、本当に大切なこととなるのではないでしょうか。
南無阿弥陀仏