(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」5月のことば)
今月の法語は、大阪市東淀川区の定専坊というお寺の住職で、浄土真宗本願寺派勧学であり龍谷大学の教授や本願寺派伝道院の院長を務められていた山本仏骨先生(1910~1991)が、『浄土真宗を語る』(本願寺出版協会・1978年刊)という書物に掲載されている対談で語られた先生の言葉だそうです。(この書物が自分の手元にありませんのでこういう表現になりました) この対談の中で先生は次のように語られているそうです。
《親鸞聖人は信心を「遇(あう)」とか「聞(きく)」という言葉で顕されていますね。だから信心ということは、仏さまの光に照らされて、私の心に明かりがつくことだというように味わうと、一ばん有難いんですよ》(下線部が今月の法語)
どうして、「遇(あう)」ことや「聞(きく)」ことが、信心となるのでしょうか。
その「遇」と「聞」ということについて、親鸞さまは『一念多念証文』というお書物に、
≪「遇」はまうあふといふ。まうあふと申すは、本願力を信ずるなり。≫
(『浄土真宗聖典(註釈版)』)
【「遇」は「出あう」ということである。「出あう」というのは、本願のはたらきを信じる ことである。】(『現代語版』)
と、お示しくださいます
『浄土真宗聖典(註釈版)』の脚注には、「まうあう」というのは「あいたてまつる」ということであると示されています。そして、「遇」の文字は、「たまたまあう」「思いがけず出あう」という意味であると辞書に出ていました。
そういたしますと、この「遇」という文字を使われた意味は、「阿弥陀さまの大いなるはたらきかけによって、煩悩に左右され、欲に振り回されて生きている私、阿弥陀仏に出あうはずのない私が、思いがけず出あわさせて頂いた」ことの喜びの表現になるのではないかと思います。その喜びは、そのはたらきに包まれていることをそのまま受け入れることから出てくるものだと思います。それが「信心」のすがたであるということではないでしょうか。
そして、次に「聞」ということについて、同じ『一念多念証文』の「聞其名号」(もんごみょうごう)を解釈される御文には、
≪「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて 疑うこころなきを「聞」といふなり。またきくといふは、信心をあらわす御のりなり。≫
(『浄土真宗聖典(註釈版)』)
【「聞其名号」というのは、本願の名号を聞くと仰せになっているのである。聞くというの は、如来の本願を聞いて、疑う心がないのを「聞」というのである。また聞くというのは、 信心をお示しになる言葉である】(『現代語版』)
と、示されています。
このように、「遇」「聞」という言葉が信心を顕わすものであることを親鸞さまはお示しくださいます。
私たちは、私がどんな状態であっても、今すでに、如来のみ光(ご本願のはたらき)の中にいるということです。そのことをそのまま聞かせて頂く(具体的には阿弥陀さまのみ光のおいわれ・念仏のおいわれを聞き受け取らせて頂く)ことが、信心をいただくすがたであると思います。
信心をいただくということは、私が阿弥陀さまのみ光に照らされている身であることを知らされるということです。そのみ光は「無碍光(むげこう)」とも顕わさます。どんな壁をも突き抜けてすべてを照らし尽くす光です。私の心の中にもそのみ光は届いているのです。
私の身も心も照らし続け、安心を与えようと、はたらき続けてくださっているということです。そのことを表してくださったのが、今月の法語であると思います。
阿弥陀さまが「お念仏(南無阿弥陀仏)」となって、私にはたらいていてくださっているのです。お念仏称えさせていただく中に、私を明るく温かく包んでくださる阿弥陀さまのおはたらきを喜ばせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏