(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」7月のことば)
さて、今月の法語は、山口県長門市にある西念寺の住職をされ、浄土真宗本願寺派の勧学であられ、2012年往生された深川倫雄(ふかがわりんゆう)和上の言葉です。
深川和上のお話を集めた『佛力を談ず』(1984年永田文昌堂刊)という講話集があります。その中に次のようなことが書かれてありました。
《 我々は人さまとおつき合いをして「この人はいい人だ」と思われようと精一杯じゃあありませんかね。こりゃね、あんまり誉めたことではないですよ。
仏法というものは、人間の交際を軽くしておる。人間の交際というのは、私と人々との交際であって「あれからよう言われたい、これからよう言われたい」と、こうなる。
その人間の交際、やめられはしませんが、人間の交際を軽くして、私と阿弥陀さまの交際世界を重くするのが仏法、お念仏であります。
「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」というやり方が仏法のやり方です。
「こうしたら人が悪るう言ゃあすまいか、こうしたらあの人からよう思わりゃあすまいか」ちゅうのが人と人の交際であります。……(略)……人を誉める人がおったら、誉める人の心が肥えていく。人を悪く言えば、言う人の心から血が流れておるんだ。誉められてもどうもない。貶されてもどうもないはずなのに、そのはずなのに一生懸命になって誉められたい。悪う言われとうない。ということに心を使っておる。これは除(の)かんかも知らんけれども、仏法に心を志すということは、なるべくそういうところに気を配る心を遠ざけて、私と仏さまとの交際を重くするのが仏法であります。》
「講話集」ですので、おそらく山口県長門地方の話し言葉で、語られたことを、そのまま書かれてあります。ですから、少しわかりにくい表現かもしれません。
和上は、私と仏さまとの交際を重くするのが仏法であると申されています。そしてこの文章の後に「私達は真っ黒なカプセルの中に心を納めて生きている」と申されるのです。
他の人には絶対にすべてをさらけ出すことのできない心、人には絶対見られたくない心を外からは見えない真っ黒なカプセルにしまい込んで生きているのが私自身であると示されます。 しかしながら、そんな心を少しでもわかって欲しいという思いを持つのも私達であります。それが、友達の存在であるということも示してくださいますが、どんなに気の置けない友達でも、自分のつらさを、苦しみを完全にわかってくれるとは言えないことも示されます。
このカプセルの中には誰も入ってこない。しかしこの中に入ってくださったのが親さま(阿弥陀さま)であると言われます。
そして、和上は
《「覩見諸仏浄土因、国土人天之善悪」と一切衆生の奥の奥までご覧くださって、何とおっしゃったか、善導大師のお言葉で言えば、「ただ愁歎の声を聞く」ため息ばかりが聞こえてくる。》と申されています。
私が、決して人に言えないような恥ずかしい心を持っていることを見抜き、放っておくことができずに、私の心の中に入り込み住み込んで、私のことを中から支えてくださるのが阿弥陀さまであります。
今月の言葉は、引用させていただいた文章の中にありましたように、「こうしたら仏さまがお喜びなさるか、こうしたら仏さまがお悲しみか」ということを考えて、行動し言葉を発することが大事なことであるとのお示しだと思います。
例えば、煩悩にまかせて、自分の欲望のままに行動すれば、何をしでかすかわかりません(ウクライナやガザ地区で起こされている戦争はその最たるものでしょう)。言葉でも同じことが起こります。言葉の暴力で今までどれだけの人々が傷ついてきたでしょうか。
自己中心の思いしか持てない私、煩悩成就の私の間違いを教え続けて、捨てることなく、温かいお慈悲のぬくもりで包んでくださるのが、阿弥陀さま(南無阿弥陀仏)です。
真実の阿弥陀さまと共にある私たち一人ひとりです。皆さま、お念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏