(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」9月のことば)
残暑とは名ばかりの猛暑(酷暑)が続いております。
そして台風10号が九州から四国に向かっている現状ですが、動きが非常に遅く九州各地に大きな被害をもたらしています。まだまだ、今後どのように動いていくのか注視していかないといけません。近頃よく耳にする「自分のいのちを守る行動」をすることは当然のことでありながらとても大切なことであると思います。皆さまどうぞお大切になさってください。
ところで、台風の本当の姿を私たちは理解しているでしょうか?近頃では衛星写真(映像)でその姿を上から撮って雲の渦の大きさや台風の目を私たちでも見ることができるようになりました。しかしそれは写真や映像であって、自分自身がその台風を全部わかったことになりません。更に色々な言葉で台風を表現しても、その全部を表し尽くし、理解したことにはならないと思います。物事の本当の姿を知り尽くすということは、誠に難しいことです。
仏教は物事のありようを知り尽くすことによって、自らの安心を得る教えではないかと思います。物事の縁起の道理を悟ることによって苦悩から解放される道が仏道ということだと思うのです。その悟りを得られた方が「仏(仏陀)」です。その悟りの世界は、私たち凡夫にとっては誠にはかり知れない世界であります。
親鸞さまは「帰命無量寿如来 南無不可思議光」と「お正信偈」の最初に示されます。
「限りないいのちの如来に帰命し、思いはかることのできない光の如来に帰依したてまつる」(教行信証・現代語版)と示してくださいます。つまり、私たちの知識では到底知り尽くすことのできないのが仏さまの悟りの世界であるということです。
親鸞さまの書かれた『唯信鈔文意』という書物には、
「法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえ たり」
<法身は色もなく、形もない。だから、心に思うことができないし、言葉にも表すことがで きない>(『唯信鈔文意 現代語版』)
というお示しがあります。
この法身とは、「さとり」そのもののことをいいます。つまり「さとり」そのものの世界は言葉で生き生活している私たちには理解できないというか、理解を超えているということではないでしょうか。
さて、今月の法語は、京都の大谷大学で学長をされていた、寺川俊昭(てらかわしゅんしょう)(1928~2021)先生の言葉ということです。(出典の書物が手元にありませんのでこのように書かせていただきます)
「如来ご自身が南無阿弥陀仏となって 衆生の前にあらわれてくださった」
という今月の言葉は、私たちの理解を超えた絶対安心のさとりの世界から、不安で苦しみ悩む私たち一人ひとりに本当の安心を与えたいと、はたらき出してくださった方(如来)が、自ら「南無阿弥陀仏」と名のりを上げられ、私たちに向かってはたらいていることをお示しくださった言葉です。
私たちがお念仏を称えることができるのは、最初に阿弥陀さまがはたらき出されたからであるということです。私たち一人ひとりのことを思い続け支え続けてくださっているのが阿弥陀さまなのです。そして、数限りない多くのご縁を頂いてお念仏称えさせて頂く身となっている自分であることを大切にしたいと思うことです。
皆さま、お念仏申しましょう。
南無阿弥陀仏