(2024年 真宗教団連合「法語カレンダー」10月のことば)
今月の法語は、真宗大谷派の僧侶であられた安田理深先生の『聞思の人⑤安田理深集』(東本願寺出版部・教学研究所編)という書物の中の言葉ということです。
2020年3月、先生の言葉がカレンダーの法語でありました。
「本当のものがわからないと 本当でないものを本当にする」
4年前に、この法語に出遇い、書かせていただいていたのにすっかり忘れておりました。
今回、先生のことを少し調べていて、以前に先生の言葉に出遇わさせていただいていたことに改めて気づかされました。誠にお恥ずかしいことです。
その時に、安田理深先生のことも以下のように紹介させていただいておりました。(ウキペディアによります)
安田理深(やすだりじん、1900年9月1日―1982年2月19日)は、日本の仏教学者。真宗大谷派の僧籍を持つ。
<人物>
青春時代には東洋哲学やキリスト教などを学んだが、金子大栄の著作に触れて親鸞思想に目覚め、大谷大学へ入学。私塾「学佛道場相応学舎」(1935年開設)を主宰し、浄土教理学のほか唯識などの講義を行った。その学識から幾度も大学教授などの誘いがあったが、生涯無位無官を貫いた。
ウィキペディアの文章なのですが、安田先生はきっとすごい方であったと思われます。
そして今回、「学佛道場相応学舎」は今も京都市の北区で活動(聞法会)を続けられていることも教えて頂きました。
さて今月の法語を読ませて頂き、「人間とはどういうものか」「私とはいかなるものか」ということを問われているのではないかと思いました。先生の思索の深さには到底及ぶものではありませんが、私なりに今月の法語に対する思いを書かせて頂きます。
親鸞聖人は正像末和讃に
無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは 高峰岳山にことならず
というお示しをされています。
現代語版には
《無明煩悩が激しくおこり、数限りない塵のように満ちわたっている。ほしいままに愛着や憎悪をいただくありさまは、まるでそびえたつ高い峰や岳(おか)のようである。》と示してくださいます。
無明とは明りのない状態のことを言いますが、ここでは仏の悟りの智慧の明るさがないということの意味であると聞かせて頂きました。
真っ暗闇の中では周りが全く見えません。そこに何があるのか見ることができません。光があればこそ物の存在に気付かされます。自分の持つ煩悩についても同じことです。煩悩を煩悩と気づかしめるはたらきがあればこそ、煩悩を煩悩と認知することができるのだと思います。 それが、仏の悟りの智慧のはたらきです。
このご和讃では、「無明煩悩しげくして塵数のごとく遍満す」と示してくださいますように私どもは自分では認識不可能なほどの数の煩悩をもっていることを仏さまは教えてくださっているということです。そういう私たちですから、自分の都合で、人を愛し、人を恨み憎しみの心を持ち、その心(貪欲や怒りなど)が高い山のように膨れ上がっていくことを「髙峰岳山」と譬えてくださっています。
そして「無明」と示されるということは、煩悩だらけの自分であるという認識はあっても、それを自分の力で滅することができないことを表しているのだと思うのです。だからこそ、お念仏を称えさせていただき、常に私にはたらきかけてくださっている阿弥陀さまのことを聴聞することが大切であると教えていただきます。
今月の法語は、煩悩成就の人間が自分の知識や思いだけで対人関係を築いていこうとすれば多くの問題が生じることを示してくださった言葉であると思います。つまり自分の都合、自分の思いを相手に押し付けることになるからです。
今こうしているうちにも多くの人々が戦争の犠牲になっておられます。いくら大義名分があると言っても、自分たちの都合で戦争を起こすことは許されないことだと思います。戦争で犠牲になる方の多くは、お年寄りであり子供たちです。一刻も早く戦争を止めて頂きたいと思います。
今月の法語を頂いて、特に、今現実にある戦争のことを思わずにはおれません。
南無阿弥陀仏