(2025年 真宗教団連合「法語カレンダー」2月のことば)
今月の法語は、作家の高史明(コ サミヨン)さん(1932~2023)の言葉です。東本願寺出版から出されています『悲の海は深く』に掲載された言葉だそうです。
まず、「名号」ということについて、『浄土真宗辞典』(本願寺刊)には、
「一般にはすべての仏、菩薩の名前をいう。浄土教では、とくに阿弥陀仏の名を指し、嘉号 ・徳号・尊号などともいう。浄土真宗では「南無阿弥陀仏」を六字の名号、その徳義をあら わした「南無不可思議光仏」を八字の名号、「南無不可思議光如来」を九字の名号、「帰命 尽十方無礙光如来」を十字の名号という。曇鸞は名号に破闇満願するはたらきがあること、 善導は六字釈によって願と行が具足する名号がよく往生の行となること、法然は阿弥陀仏の 無量の徳がそなわっていることをそれぞれ示している。
親鸞は、名号が仏の衆生救済の願いのあらわれであり、摂取して捨てないという仏意を、 あらわす本願招喚の勅命であること、すなわち、仏の衆生救済の力用(りきゆう)である 本願力そのものが名号であると示している。」
引用が長くなりましたが、このように、名号は本願力そのものであると親鸞さまはお示しくださいました。(下線部)
ここにも示されていますように、阿弥陀さまの本願力とは衆生救済のはたらきのことです。
「生きとし生けるもの(いのちあるものすべて)を必ず救う。本当の安心を与える」とのはたらきということになるのだと思います。それが「名号(南無阿弥陀仏)」のはたらきだということです。
そして、阿弥陀さまは私たちに対して何の要求もなしに私たちのことを救おうとはたらかれています。それは何故でしょうか。
親鸞聖人の著された『教行信証』に、善導大師著の『観経疏』が引かれています。その引文の中に「二種深信」の文があります。その文を『現代語版(p.172)』(本願寺刊)から引かせてもらいます。
【<二つには深心>と説かれている。深心というのは、すなわち深く信ずる心である。これ にまた二種がある。一つには、わが身は今このように罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れ ない昔からいつも迷い続けて、これから後も迷いの世界を離れる手がかりがないと、ゆるぎ なく深く信じる。二つには、阿弥陀仏の四十八願は衆生をおさめ取ってお救いくださると疑 いなくためらうことなく、阿弥陀仏の願力におまかせして、間違いなく往生すると、ゆるぎ なく深く信じる】
下線部が「機の深信」と言われるものです。ここに私の本当の相(すがた)が、顕わされていると思います。つまり、私どもはどこまで行っても迷い続けていく存在であるということです。
親鸞さまはご和讃に
無明煩悩しげくして 塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは 高峰岳山にことならず
【無明煩悩が激しくおこり、数限りない塵のように満ちわたっている。ほしいままに愛着や 憎悪をいだくありさまは、まるでそびえ立つ高い峰や険しい山のようである】(『三帖和讃(現代語版)』より)
私たちは、真理に暗く、もののあるがままのありようを明らかに理解できない者であり、貪欲(むさぼり)・瞋恚(いかり)・愚痴(おろかさ)といわれるような煩悩によって行動を起こし、苦しまなければならない者であると示されています。
そんな私たちですから、「放っておくことはできない」と、はたらき出されたのが阿弥陀如来なのです。
今月の言葉は、煩悩成就の凡夫が作り出す世界が「地獄」であると、高さんは示しておられるのではないかと思うのです。「地獄」とは苦しみが何度も何度も繰り返される世界、その世界を作り出す私たち凡夫、そんな者に、本当の安心を与えようと、願いを建てられ、はたらき続けてくださっている阿弥陀さまなのです。その阿弥陀さまは「南無阿弥陀仏」となってはたらいてくださっています。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀さまそのものなのです。
自分たちの作りだす苦しみの世界、自分の力では抜け出しようのない苦の世界から私の事に阿弥陀さまが、いのちの全てをかけてはたらき続けてくださっていることを表してくださったのが、今月の言葉であると思います。
その阿弥陀さまのお心をそのまま受け取らせて頂くことが、大切なことです。
南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏と繰り返し繰り返し名号を称えさせていただく(お念仏申させて頂く)なかに、阿弥陀さまが何故はたらいてくださるのか味あわさせて頂きたいものです。
南無阿弥陀仏